ファッション
彼女がぼくにはっきりと語ったのはこのエピソードだけだが、ぼくは他の場面でも彼女が「自称ヴァンパイア」と遭遇しているのではないか、という気がする。話をしている間中何かに怯えているように落ち着かなかったし、私にも幻覚の症状があるのかも知れない、とも口にしていた(彼女の精神状態は非常に不安定だが、幻覚をみる類のトラブルは今のところ抱えていないと思う。これに関しては、彼女の主治医もぼくに同意見だ)。あくまでぼくの推察だが、彼女は幻覚だと思いこみたいような事態に直面したのではないだろうか?
関係ない事件だとは思うが、彼女が「自称ヴァンパイア」に接触した時期とごく近いタイミングで、新宿の献血ルームから採血後の全血のみが盗まれるという事件が連続して起きた。ニュースのURLを貼っておくから、参照して意見をくれるとありがたい。
<ディザイアから未遠に宛てたEメール>
差出人 : DESIRE<d@*****.co.jp>
送信日時 : 5月1日 日曜日 18時6分
宛先 : Mio<eternal@blue.***.jp>
件名 : 無題
あなたの日記を見つけたのでお便りしています。
先日は偶然お会いできて嬉しかった。あなたとあのような時間を持てたことは、大きな喜びです。あなたも私との時間を楽しんでくれたのならよいのですが。
あなたが寂しい思いをしていることを日記で初めて知りました。我がことのように胸が痛みました。モリヤがいなくてつらい夜には、どうぞ、私に便りをください。どこにいても、何をしていても、私はきっとすぐに駆けつけるでしょう。
またお目にかかれることを心より願っています。
彼は忍耐強かった。理性を手放して欲望に身を任せるよりは飢えと渇きに苛まれても自我を保っていたいと、耐えられる限界までは「狩り」はせずに済ませたいと、百年を経ても思っていた。こんな体になった以上、痩せ我慢などするだけ無駄だ、と彼のあるじ主はいつも彼に言い聞かせていたが、彼はどうしても主のようには割り切れなかった。長い年月のうちに彼は欲望をやり過ごす方法をおぼえ、同族の他の者に比べてずっと少ない回数の食事でもつようになった。味にもこだわらない。
ただ、年に一回、聖ジョージの前夜だけは、然しもの彼も自分を抑えられない。凶暴なまでの飢餓が内側から彼を突き動かすのだ。この夜ばかりは、冷えて鮮度の落ちた糧ではしのげなかった。生きた獲物が必要だった。気が狂わんばかりの激しい渇きを抱えて、彼は教えられた場所にやってきた。
十三階、と装飾文字で描かれた看板の下に、「クリムゾン・ヘヴン」と赤で大きく記されたフライヤーが貼られている。地下へ階段を下りていくと、分厚い防音扉の奥のフロアに、先日食卓を共にした少女たちと似たような、奇抜で派手な服装の客がひしめいていた。ここにいる人々の服装は不思議だな、と彼は思う。彼が人間として生きていた時代を想起させるデザインに、色々な国や物語のイメージがごてごてとアレンジされて、どの時代のどの国にも属さないファッションが出来上がっていた。様式があるようでなく、しかし全体としてはある方向性を示しているように見える。
ステージでは、宇宙服を思わせる質感の、あちこちにチューブが飛び出た蛍光色の服に派手な緑色のウィッグをかぶったDJがプレイ中で、びっしりと付けまつ毛をつけたドラァグ・クイーン達が踊っていた。少女たちはショウを楽しんだり、飲み物を手に笑いあったりしている。ビスチェのストラップがくいこんだ肉づきのよい背中が目の前にあり、つやつやと血色よく火照った肌が彼の食欲を刺激した。
「……でも、それちょっとなりきりすぎて痛くない? 飲み物に何か入れて『血です』って。そこまでやられると引くよ」
「そうなんだけど、でもホントにいい顔なんだもん。あれだけルックスが良かったら、多少の言動は許せる」
「そんなにー?」
「そんなにだよ! そのへんの気持ち悪いブサイクが勘違いして、全身似合わないモワティエで固めたあげく『吸血鬼の貴族です』とか言ってるのとは違うんだから! ヴィジュアル系にもちょっといないような美形だよ」
「皇と付き合ってた女がよく言うよ……。そもそも美針、ヴィジュアル系知らないじゃん」
聞きおぼえのある声に近づいてみると、このイベントに来るよう熱っぽく言っていた女がクルーカットの連れと話していた。ミシンと言ったか。
「……あ、ディーさん!」
ミシンが彼に気付き、同時に連れも振り返って目を瞠った。彼は今夜、正装の夜会服にマントを纏っている。ベラ・ルゴシやクリストファー・リーが銀幕で演じた、ドラキュラ伯爵の衣装だ。マントはモワ・メーム・モワティエというフランス語の名前の店で手に入れた。裏地が深いブルーで、気に入っている。
「嬉しい、来てくださったんですね! しかも一段と素敵です」
ミシンは胸が大きく開いたジャケットを着ていた。ボーンの入った下着でウエストを締め、バストを寄せているらしく、豊かな胸が目の遣り場に困るほど強調されている。足首まであるタイトスカートのスリットから、網タイツの太腿が覗いている。
「あなたに……またお会いしたかったので……、来てしまいました」
「ああ、そんなこと言われたら好きになっちゃう」
ほろ酔いなのか、ミシンの目もとや首がうっすら朱い。彼は身をかがめ、朱く染まった耳朶に口をよせた。人目を憚らず、状況も顧みず今すぐここでやってしまいたいという衝動を何とか抑え、囁いた。
「……二人きりで……お話が、したい」
ミシンが目を見開く。驚きと、期待とおそれが綯い交ぜになって瞳が潤んでいた。彼はその瞳を至近距離から覗き込んだ。操り人形のように首をこくり、と折って頷くと、ミシンは連れに「ちょっと」と断り、彼を先導して人のあいだを縫い、フロアを抜け出した。化粧室の奥の個室に彼は引っ張り込まれた。化粧室の蛍光灯はフロアの照明より明るく、白々とした光に彼は一瞬目が眩んでマントで顔を覆った。ミシンがくすっと笑った。
「明るいのも嫌いなの?」
「目が、弱いもので……」
「色素が薄いのかな。色も白いし、だからこんなにカラーコンタクトが映えるのね。きれいな紅」
ミシンは便器に腰掛けて彼を見上げ、紅い瞳を見詰めた。彼はその視線を縛り付けるように見返した。目を逸らせないままミシンの頬が上気し、呼吸が浅く、早くなるのがわかる。暑い、と呟いて彼女はジャケットを脱いだ。インナーはほとんどランジェリーにしか見えなかった。
「……話って、なに?」
「いえ……あなたが、ヴァンパイアの花嫁になってもいい……と、以前仰っていたので……」
「覚えていて頂けて光栄ですわ」
ミシンはちょっと拗ねたような表情になった。
「この間お会いしたときは、私ひとりではしゃいでしまって、片想いだわと思ってヘコんでたんです。しかもディーさんは、私よりモリヤさんに興味がおありみたいだったから」
「……モリヤ……」
「そう、あの人本もいっぱい読むし、頭がいいから、私モリヤさんと喋ってるとときどき自分が馬鹿みたいに思えて惨めになるの。実際、あの人は私を馬鹿にしてると思うし。……ね、どう思います、モリヤさんのこと?」