ファッション
女と女、人間と人間の関わり合いはいつの日も変わらないのだな、と彼は思ったが、その感慨に浸っている余裕は今はなかった。
「……私は、あなたの話がしたい。あなたこそ、どうなんです……お気持ちに、変わりは……ありませんか」
「え? え、ええ」
「あなたなら……私に血を、下さるかと……。キスを、していいですか」
言いながら彼はミシンに覆い被さるようにして顔を近づけ、右手で彼女の頭を支え、左手で肩を抱いた。彼女の心臓が早鐘のように鳴っているのが伝わってきたが、それは恐怖ではなく悦びによるものだと彼にはわかっていた。
「……して、ください」
ミシンがあえいだ。彼はミシンの首すじに唇をつけ、歯を立てた。が、力は入れず、軽く歯をあてるだけにとどめた。彼の唇が離れると、緊張で強張っていたミシンの体から力が抜けた。男は笑った。
「……本当に……血を吸う、とでも思いましたか……」
「……思ったわ。あなたなら」
彼はミシンの左手を押し戴いて、手の甲に恭しくくちづけた。されるがままのミシンの指を口に含み、舌で擽ると彼女は吐息のような声を漏らした。爪を飾るネイルチップのせいで、やけに人工的な味がする。人差し指、中指、薬指と一本ずつ順に指をしゃぶられながら、彼女の声はだんだん甘く、熱をおびていった。
サーヴィス奉仕はこのくらいでいいだろう。最後に小指を歯と歯の間から引き抜き、彼はミシンの手首を掴んで引き寄せた。彼に欲情する女はたいてい首すじにキスを欲しがるが、彼自身が最も好むのは頸動脈より手首の脈だった。
待ち望んでいた瞬間がとうとう来た。鋭い牙が、静脈が青く浮く柔らかな皮膚を食い破り、温かい血が溢れて彼の喉に迸った。普段は、罪悪感と自己嫌悪が勝って味わえないこの快感、この感触こそが今夜渇望していたものだ。彼は夢中で貪った。女の甲高い悲鳴も気にならなかった。どのみち防音扉の向こう、遠い音楽に酔い痴れて踊る人々のところまでは、届くまい。
ベッドの上に片膝を立て、足首まであるスカートのレースの裾を手繰る。キャンドルのはかない明かりが揺れる薄闇に、白い脚がぼんやりと浮かぶ。骨のかたちが浮き出た膝や、腿に残る幾つもの切り刻んだ痕も、無残に外気に晒される。
傷痕は幾重にも重なり、酷い箇所では網目模様になっていた。比較的カンバスが空いている部分を見定め、モリヤは銀のナイフをすうっと走らせた。引かれた紅い線からたちまち血が滲む。
不安な要素は山のようにあった。籍がまだあるのかも不明な大学の新年度がもう始まっている。未遠の成長が日ごとに早くなっていく。そしてあの男のことだ。月曜日の夜、モリヤはここで一夜を明かして、翌朝昼の光のなかで建物の様子をチェックした。開けられる部屋は全部開けて男の形跡を調べたが、結局あの晩男がどの部屋を使ったのかはわからずじまいだった。鍵も無事だった。あんな得体の知れない男にこの場所を教えてしまったのは途轍もない失敗だったとモリヤはあらためて思い、激しい後悔を夜まで振り払えず、火曜日は睡眠薬を大量に飲んで無理矢理眠ってしまった。
切った皮膚から流れる血を見ていると、そういうことどもを束の間忘れる。つくったばかりの傷に対して直角にナイフを使い、モリヤはクロスを描いた。赤い液体は脚をつたって踝へと垂れ、床に滴り落ちて絨毯の染みを増やした。
何故こんなことをするようになったのか、モリヤは自分でもわからない。中学生の頃、父だと信じていた人に会いたくてこっそり通っていたD'ARCのライヴで、黒服のお姉さんたちと仲良くなった。年季が入ったバンドだけにファンの年齢層が高く、皆モリヤより十歳以上年上だった。十代の客などほとんどおらず、物珍しさも手伝って、モリヤは妹のように可愛がられた。そのお姉さんたちの中に、いつも手首に包帯を巻いている人がいた。モリヤはその人を随分好きだったので、それが格好良く見えて真似をしたかったとか、初めて手首にカッターナイフを当てた動機はその程度だと思う。
ライヴハウスで会うたびその人はモリヤに良くしてくれたが、あるとき思い切って「自分は実は守屋ユヅルの隠し子なのかも知れないのだ」と打ち明けたら、掌を返したように避けられるようになった。当時は何が起きたのか理解できなかったけれど、今ならわかる、ユヅルに憧れるあまり頭のネジがとんだ可哀想な子だと思われたのだ。死んでしまいたいほど恥ずかしい。
そうしてD'ARCを聴かなくなって、自傷癖だけが残った。六、七年前、バツやヒアゼアやh.ナオトに身を固めてライヴ会場を意味もなくうろうろしていた時には、包帯を勲章か何かのように見せびらかしてさえいたものだが、ゴシック・ロリータファッションを好む人たち、とりわけ「ノスフェラン」のメンバーはリストカットの痕を罪人のスティグマを見るような目で見た。ロリータはともかく、ゴス・ファッションは、明るく健康な人間「ではない」というある種生きにくさの記号ではないか、体を切るほど切羽詰まっているからこそ社会的な服を着られないということがわからないのだろうか、とモリヤは思っているものの、出来たのは痕が目立つ手首はやめてレッグカットに移行するという遠慮だけだった。
くだらない思考が脳内を占拠し始めたので、モリヤはもう一箇所、大きく斜めに切った。痛みは感じない。面白いように血が出るのを見て、ああ、生きているんだなあと感心するだけだ。
「……吸血鬼を前にして、自ら……血を流すとは」
ふいに暗闇に声が響いて、モリヤは心臓が止まりそうになった。背の高い男の影が、揺れるキャンドルの向こうに浮かぶ。いつからそこにいたのだろうか、全く気配を感じなかった。部屋のドアには内側から錠を下ろしてある。音も立てずに侵入するのは人間には不可能だ。
「ディ……ザイア……」
「やけに、血のにおいがすると……ずっと、思っていた……」
男はモリヤの脚の、三すじの血の線を凝視している。モリヤは自分のしているあられもない格好にようやく思い至り、脚の付け根までたくしあげていたスカートを下ろして脚を覆い隠した。男はなおも、スカートの奥から流れ落ちる血に目を奪われている。血走った紅い瞳に、低い声に、いつもの余裕が感じられない。見れば、毒々しく赤い唇の端に、まだ生々しい血の痕がある。
「……本物の気違いだと思ってたけど、血を吸うのはやりすぎじゃない? 悪いけど、そこまでのごっこ遊びには付き合えない」
つとめて平静に言おうとしたが、喉がカラカラに乾いていて声がうまく出せなかった。体の震えを、どうしても止めることができない。
「この世界で、生きていたくないと……いつも……思っていたのでは、ありませんか」
「そうだよ、あたしは生きていたくない。不死者になって永遠に死ねないなんて、冗談じゃない!」
男が一歩近づいてきた。床についていた片足を引き上げ、モリヤはベッドの上で後退った。更に一歩、男が近づく。モリヤも後退ろうとして、背中がコンクリートの壁にぶつかった。
男がベッドに膝をのせ、体重をかけた。ぎし、とスプリングが悲鳴をあげる。
「来るな! さわらないで!」