ファッション
甘く響く声で言い、男は優雅な手つきでワイングラスを口に運ぶ。注文したペリエもそこそこに男を観察していたモリヤは、男の口もとにやけに尖った犬歯がちらりとのぞいたのを見た。右隣の姫乃もそれに気付いたのか、あ、と声をあげた。
「……すごい、牙まで付けてらっしゃるんですね。完璧だわ」
「瞳の色も生まれつきの色みたい。髪の毛も」
羨ましげに呟いた少女は、ゴブラン織りのドレスとボンネットに合わせるために、金髪巻き毛のウィッグとブルーのカラーコンタクトを着けていた。コバルトブルーを出したいのに、元々の瞳が黒いせいでどうしても青灰色になってしまう、と昼間しきりに嘆いていた。
八人の注目を一身に引き受けて平然と座っている男は、怖ろしいほど様になっていた。ゴスロリ趣味の人間は、概ねヴァンパイアのイメージに恋している。テーブルには昂揚感が満ちていた。生ハムとルッコラのサラダ、イベリコ豚のロースト、ゴルゴンゾーラのパスタ、ピッツァマルゲリータ……次々に運ばれてくる料理を旺盛に食しながら、少女たちは自分の好みのヴァンパイアについて、その永遠の悲哀と孤独について、熱心に語り合った。『MOON CHILD』のhydeがいかに美しかったか、美針が熱弁をふるっている。モリヤはなんとなく醒めてそれを聞いていた。そういうものに無邪気に憧れることを許されるのは十代までだ、という気がしていたのだ。料理を取り分けるのが面倒であまり食も進まず、未遠が暇つぶしのようにフォークを玩ぶのをぼんやり眺めていた。
「D’ARCの守屋ユヅルもいつだったかヴァンパイアに扮したじゃない、アルバムのジャケットかなんかで」
この場では最年長のゴス・マダムの一言で、モリヤは我にかえった。
「あれも良かったよね、守屋によく似合ってた。まあ、もう十年ぐらい昔の話だけど」
「ええー、それ知らないや、見てみたいですー。私ヴィジュアル系って詳しくないから」
モリヤはそのアルバムジャケットを鮮明に思い出せた。まだ髪を肩くらいまで伸ばして化粧も濃くしていた頃のヴォーカルの守屋が、襟元に黒いリボンを結んだ白のブラウスの上からマントを羽織って、妖艶に笑っていた。……あれは良い写真だった。モリヤはD’ARCと守屋ユヅルに関わることはもう考えないことにしていたが、一度何かのはずみで封印が解けると思い出が次々に引きずり出され、収集がつかなくなるのだった。
物思いにとらわれかけたモリヤに、未遠が遠慮がちに話しかけてきた。おかげで、モリヤは思い出の無限の連鎖に沈まずに済んだ。
「……モリヤは『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』を劇場で観たんでしょう」
「観たけど、付き合いだよ。話ももう忘れたし」
「わたし、見てみたい。『ポーの一族』にちょっと似てるところがあるって、どこかに書いてあったんだ。『ポーの一族』は図書館で借りたんだけど、すごく面白かった、……」
ふいに未遠が口をつぐんだ。いつからか未遠に視線を注いでいた男と、目が合ったのだ。男は面白そうに言った。
「……ヴァンパイアにも、流行が……あるようですね」
会話を邪魔された不快感を示すために、モリヤは出来るだけ冷たい声を出した。
「食べてるの? お皿が空っぽじゃない」
「お気遣いなく……。あまり……食欲が、ないのです。あなたと同様……」
「血の方がお好みって訳か」
「そう……ですね」
「きゃあ、ディーさんになら吸われたいですう」
大皿に中途半端に残った料理を一手に引き受け、きれいに平らげていた姫乃がとろんとした目つきで言った。生成のワンピースの、パフスリーブから伸びた腕がはちきれそうだ。酔いと熱気で誰もが……モリヤと未遠と男を除いて……頬を紅潮させていたが、姫乃は額に玉の汗を浮かべていた。
「……貴女は、美味しそうだ」
アブラガノッテ。モリヤは未遠にだけ聞こえるように付け加えた。未遠が俯いて、笑いの上った口もとを隠す。そのとき男がモリヤを見て「……まさに、そうです」と呟いた。モリヤは硬直した。姫乃は脳天気にいやあん、などとはしゃいでいる。皇が複雑な表情で姫乃を見守っている。
「私の血も差し上げますう。わたしー、ヴァンパイアの花嫁になるのが、夢なんですよお」
だいぶアルコールがまわっているらしく呂律の回らない美針が、男にしなだれかかった。「……覚えて、おきましょう」と男は言い、さりげなく美針から距離をとった。
「そうだ、今度ゴスロリのオールナイトイベントがあるんです。十三階っていうお店で。昼のお茶会が駄目なんだったらあ、そっちにいらしてくださいよう」
「それも、覚えて……おきます。有り難う」
会がお開きになってキリストン・カフェを出たあと、男を囲んでちょっとした路上撮影会になった。お揃いのアリスアウアアを纏った男と未遠が並ぶと一幅の絵のようで、モリヤも思わず我を忘れてシャッターボタンを押した。名残を惜しみつつデジタルカメラを仕舞い、帰路につくため駅へ向かう間にも、美針は頻りに男をオールナイトイベントに誘い続けていた。
モリヤと未遠だけが地下鉄利用で、JRに乗るあとのメンバーと東口の改札で別れた。男は二人と一緒に皆を見送り、南口方面へ歩き出したモリヤと未遠のあとを、当たり前のようについてきた。モリヤが振り返り、投げつけるように言った。
「……で、どこへ帰るのよ、あんたは」
「家へ……」
「家ってどこよ」
「……この近くです。歩いて……帰れます」
「どうやってあのラブホテルから出てきたの」
「何のこと……でしょう」
「しらばっくれるつもり?」
モリヤは声を荒げた。男はまるで動じない。涼しい顔で、夜風に銀髪をそよがせている。
「……仰ることが、わかりかねます」
「あんたの素性を教えなよ。……まさか、正真正銘・本物のヴァンパイアじゃないんでしょう?」
「そんなものが……本当にいると、お思い、ですか……?」
腕組みをして男を睨み据えているモリヤと、超然と微笑んでいる男が対峙している脇を、人々が足早に通り過ぎて行く。三人に目を留め、指差していく者もあった。端から見れば、銀髪に紅い瞳の男も、男とお揃いの格好をしている少年のような未遠も、コルセットをきつく締め踝まであるスカートを引きずっているモリヤも一様に奇異な存在なのだろう。
「今日、あなたとお会いできて、……良かった、モリヤ。ミオもです。また……お会いしましょう」
くるりと踵を返して、男はスタジオアルタの方に歩み去った。歌舞伎町方面の闇に溶けてゆく男の後ろ姿を、モリヤは唇を噛んでいつまでも見詰めていたが、やがて慌てた様子で携帯電話の画面を確かめた。
「いけない、こんな時間だ。未遠が明日学校行けなくなっちゃう」
都営十二号線の中でデジタルカメラの画像を確認して、モリヤと未遠は顔を見合わせた。男の写真がなかったのだ。靖国通りの路上で何枚も撮った写真はどれもただ真っ暗で、未遠と並んでいたはずの写真には未遠の姿だけがあった。
「カメラ壊れてんのかな。でも、昼間のお茶会の写真は大丈夫っぽいんだけど……」
首を傾げるモリヤのブラウスの袖を未遠がぎゅっと掴んだ。未遠は首すじまで青ざめていた。
「……ヴァンパイアは鏡に映らないんだよね」