ファッション
「この国は……本当に、暮らしやすい……。特に、東京、という街は。祈りの儀式が、何もかも形骸化している。本来、死者を送るための場は……聖域……なのだろうに、……ここには何の結界も、張られていない……」
「……未遠に、何を……したの」
「永遠を……さしあげました」
「……あんたと同じものにしたということ?」
「そうです。……この子は、我々の一族に加わりました……。最早……生きてはいませんが、死ぬことは……ない。……齢をとって老いることも、ない。……不死者になったのです」
「なんてことを……!」
叫んだモリヤの声はほとんど悲鳴だった。男の首にしがみついた未遠が、慌てた様子で言った。
「違うの、モリヤ、わたしが頼んだんだよ、ディザイアに。仲間に入れて、って。……今ならまだ、わたし、生理もきてないし胸も真っ平だから、ギリギリ間に合うと思ったんだよ。そうでしょ? モリヤは、ずっとこのままでいてくれたらいいのにってわたしにいつも言ってたじゃない。安心してよ。もうずっとこのままだよ。わたしは永遠にこのままなんだよ!」
「そう、……そもそもは、あなたが……望んだ永遠だと、私は聞いていますが、……モリヤ」
モリヤの目から涙があふれた。そんな馬鹿な。私が望んだから未遠はヴァンパイアになったというのか。この世でいちばん可愛い未遠、最愛の妹を吸血鬼にすることが、私が望んだ結果だというのか。……そうだったかも知れない。確かに私は、あの子が人形のように今の姿をずっと保ってくれたらと、何度となく夢想した。それは歪な愛情だったかも知れない。……モリヤは激しく頭を振った。
「違う、違う!」
「……何が違うの? モリヤ……喜んでくれないの?」
不安げに訊く未遠に、モリヤはきっと顔をあげて怒鳴った。
「あんたは何もわかってないのよ、未遠! 子どもだから……! 齢をとらないっていうことがどういうことか、死ねないっていうことがどういうことか、永遠がどんなに残酷かっていうことも!」
わめきながら、モリヤはこの期に及んで初めて、ヴァンパイアの存在を、人間の生き血を求めて夜の中を歩き、霧に姿を変えて街を漂い、死ぬことのない、お伽話の怪物だと頑なに信じていたものが実在することを、理解した。あの半ば廃墟と化したラブホテルの一室で対峙した時でさえ、心のどこかで信じていなかったのに。
「どうして? モリヤ、どうして?」
まなじりが張り裂けそうに見開かれた未遠の目から、紅い涙が流れた。
「わたし、モリヤのために、モリヤが喜ぶと思って、決めたのに。ねえ、モリヤは居場所がないんでしょう? 男が嫌い、女でいたくない、生きてなんていたくないって……。だから、モリヤも仲間に入ってよ。そうすれば、モリヤの望みはみんな叶うよ。モリヤは血だって好きだし、」
「やめて、冗談じゃない! そんなものになったって、私は救われない!」
「わたし、モリヤがいないとどうしていいかわからないんだよ。お願い、モリヤ、わたしと同じものになって。いつまでわたしと一緒にいて。ずっと二人でいれば、きっとそれだけで幸せだよ。だから、……そのナイフを捨てて、こっちへ来てよ」
未遠の口調は熱を帯び、モリヤを見る紅い瞳にははっきりとある欲望の色が現れはじめた。真っ赤な舌がちろりと唇を舐め、のぞいて見えた犬歯は獣の牙のように尖っていた。
「……私は……私のあるじ主に、同じ事を……言われました」
男が静かに話し出した。
「主は……十歳の誕生日を迎えられて、まもなく……ヴァンパイアに襲われた。そして、墓から蘇って……お屋敷にやって来て、私の首にすがりついて……泣きながら、仰いました。怖い……ひとりでは、どこへも行けない……お腹が空いた、と。……私は、黙って……主に食事をさせた……」
「……忠義なことね」
ちぎって投げるように言ったモリヤに構わず、男は話を続けた。
「……主は、優しかった。私に負い目があったのか、いつも……私を庇護し、私のために……動いて下さった。故国を捨て……大変な苦労をして、渡航する段取りをつけ……果敢にやってのけてくださったのも、極端に十字架や教会を怖れる私には、異教の国のほうが、住みやすかろう……というお心からのことでした……。今でも……私は生活費を、主が私に残した銀行口座に、頼っているのです……。……それなのに、肝心のご本人は、どこかへ……行って……しまわれた。あの戦争に、嫌気がさして」
「あの戦争?」
「……第二次世界大戦、です。当時、私たちは既に日本にいましたが、……陰で、見ているだけでも……辛かった。……地獄を見続けるのに嫌気がさして、私たちは長い眠りにつきました……。三十年ほど眠って……私が目醒めたとき、既に、主の姿は……ありませんでした……」
つまらない話を長々と、申し訳ありません、と言って男は、抱き上げた未遠の頭を撫で、顔を覗き込んだ。
「……ミオ、……お腹が空いている、でしょう?」
未遠はこっくりと頷いた。男はモリヤに向き直った。
「覚醒直後は、特に……強い飢餓感をおぼえます。さあ……モリヤ、ミオに、食事を……させてあげてください」
「……出来ない」
モリヤは苦しげに言った。
「……では、そのナイフでミオの心臓を貫くといい。そうすれば、ミオは、ただの死者に戻って……人間としての死を、迎えます。……魂は煙となって空へ昇り、体は灰になって……土へ還る……」
未遠が怯えて顔を強張らせた。男はお構いなしに、抱いていた未遠をおろし、モリヤの方へ押しやるようにして自分の前に立たせた。
男に言われるまでもなく、モリヤはそのことをずっと考えていた。人間として死なせてやることが、今や未遠を救う唯一の方法で、この場で未遠のために自分が出来ること、しなければならないことはそれしかないと、モリヤにはわかっていた。
力を入れすぎて関節が白くなるほど、モリヤはナイフを握りしめた。未遠の手足は弛緩していて、暴れたり逃げたりは出来なさそうだし、第一男がしっかりと未遠の肩を押さえつけている。モリヤはナイフを突き出すだけでいい。それで全てが終わる。立ち上がり、覚悟を決め、深呼吸をして、さあ、と自分に号令をかけたが、ナイフを握った両手はぶるぶる震えて、どうしても思うように動かせなかった。
男の頬を刃先でかすめたときの動揺を忘れられない。血を流すことより血を流させることの方がずっとつらかった。まして今、目の前にあって、傷つけ、血を流させ、破壊しなくてはならないのは、最愛の妹の肉体なのだ。
男が内ポケットから懐中時計を取り出した。
「……モリヤ。申し訳ありませんが、私たちには……あまり時間が……ありません」
モリヤは歯を食いしばった。涙がとめどなくあふれて、ナイフを握りしめた手にぽたぽた落ちた。しばらく、時が止まったように誰も動かなかった。やがてモリヤはナイフを胸に抱き締めて、床に膝をついた。
「……行って」
「……モリヤ……?」
未遠がおそるおそる呼びかけた。モリヤは俯いている。前髪が顔に陰を落として、表情は見えなかった。
「お願い、ここから、いなくなって。私にもう二度と会うことの無いような、遠くへ行って」
「モリヤ、いやだ……」