ファッション
咄嗟に、モリヤは首から提げていたペンダントを引きずりだし、男の眼前に突きつけた。ペンダントトップは大ぶりの十字架だ。男は一瞬驚いたような顔をしたが、次の瞬間モリヤの左手ごと十字架を掴んだ。
「こんな……オモチャを、私がおそれるとでも……?」
モリヤは叫び声もあげられなかった。歯の根が合わず、がちがちと鳴った。男は紅い瞳を光らせてモリヤの目を覗き込んだ。憐れみと嘲りの混ざった微笑が浮かべ、ぞっとするような静かな口調で言った。
「私は……生前、人間だった頃には……とても信仰に篤かった。そのぶん、十字架には、おそらく……同族の他の者より、弱いです。私の主などは、十字架をそれほど怖れていませんでしたが、私は……怖ろしかった。……けれど、それは毎日、心からの祈りを捧げられた、真の信仰が籠もっている十字架の話だ……。そんな、カタチだけを真似た……オモチャなど」
男はモリヤの左手を封じたまま、モリヤのつま先に跪くように屈み込んで、足をつたう血に舌を這わせた。モリヤは何とか男から逃れようと、滅茶苦茶に体をよじり、腕を振り回した。はずみで、右手が男の頬に当たった。
「あ……あああああ!」
男は絶叫し、モリヤの手を離してよろめいた。血飛沫が飛んで、モリヤは危うく気を失いかけた。
「……銀か……その、ナイフ……」
男の呻きを聞いて、モリヤは自分が右手にナイフを握ったままでいたことを知覚した。傷つけられた頬を押さえる男の手が真っ赤に染まっている。肉をえぐったという感触が確かにあった。自分が手を汚して他人に血を流させたという事態に、モリヤは自分でも意外なくらい動転した。血は見慣れている筈で、同じ事を自分にするのは平気なのに、自分のしたことが怖ろしかった。
男の姿がふ、と闇に紛れた。黒い霧があたりに立ち籠め、モリヤが我に返ったときには男はいなくなっていた。
ナイフを離そうとしたが、握り締めた右手が硬く強張っていてなかなか手を開けなかった。一本一本、指を左手でこじ開けてようやくナイフは手から離れ、床に転がり落ちた。モリヤはそれを拾い上げて、つくづく眺めた。重さと柄の彫刻が気に入って愛用しているナイフだが、義父が東欧で手に入れてきたということしかわからない。みやげだと言ってポンとくれたので、由来を質しもしないで貰ったのだ。もしかしたら由緒のあるナイフだったのだろうか。
銀のナイフを守り刀のように胸に抱いて、モリヤは太陽が昇るのを待った。
<未遠からディザイアに宛てたEメール>
差出人 : 未遠<eternal@blue.***.jp>
送信日時 : 5月5日 木曜日 0時54分
宛先 : DESIRE<d@*****.co.jp>
件名 : 突然、ごめんなさい
…………寂しいです。
<某匿名巨大掲示板より>
【社会】「ゴスロリ」イベントで女性が変死
1.名無し 5/5 11:31
五日午前三時ごろ、新宿区三丁目のクラブのトイレで女性が倒れているのを従業員が発見、119番通報した。女性は都内在住の派遣社員、田中実里さん(二十歳)と判明。田中さんは搬送先の病院で死亡した。実里さんの手首には二箇所の刺し傷がみられたが、死因との関連は不明。
事件当夜、このクラブでは「ゴスロリ」系のオールナイトイベントが開催されていた。田中さんも「ゴスロリ」ファッションを愛好するウェブサイトを運営するなどしていたという。
2.名無し 5/5 11:33
二箇所の刺し傷とか吸血鬼っぽい。首じゃないけど
3.名無し 5/5 11:37
Dの出番だな
4.名無し 5/5 11:48
菊地秀行の読み過ぎ
ラリってリスカに失敗したんじゃないか
5.名無し 5/5 11:50
しかし献血ルームの盗難といいマジで新宿にはヴァンパイアが居るのかね。
なんか不気味だ。
6.名無し 5/5 12:14
ヴァンパイアなりたい
7.ルカ 5/5 18:00
デイヴィッド?
<ブログサイト「eternal」より>
5月7日(土) 投稿者 : ミオ
一日じゅう寝ていた。ものすごく怠い。でも、明け方に見た不思議な夢をなんとなく忘れたくないので、ここに書いておく。
誰かが僕の部屋の窓を叩くので起きあがって窓を開けると、黒い霧が風といっしょに舞いこんできて、ディザイアさんの姿になった。夢の中の僕は、勿論吃驚していたけれど、今晩は、お邪魔します、と当たり前みたいに挨拶したディザイアさんに「遅いよ、あの晩来て欲しかったのに」とか普通に言っていた(多分、木曜日の夜、またモリヤが家を抜け出したときディザイアさんに泣き言メールを送ったので、そのときに来て欲しかったという意味だと思う。実際にはメールを送っただけで気が済んで、ぐっすり眠ったんだけど)。
夢の中でディザイアさんは正真正銘・本物のヴァンパイアで、僕はそのことを知っていた。人間のなかに身を隠してひっそりと暮らしているヴァンパイアは世界中に居るのだそうで、ディザイアさんもそうして、ロンドンから上海、東京へと渡ってきたのだそうだ。ほとんどの者は静かに隠れているけれど、中には俳優や作家として身を立てているもの好きなヴァンパイアもいて、自分の半生記を何食わぬ顔で小説として出版している者さえいるという。僕は、誰の何という作品がヴァンパイアの手になるものなのか教えてほしい、とかなりしつこくディザイアさんに食い下がったのだが、「同族を売るような真似は出来ない」の一点張りだった。
ディザイアさんはひどく疲れて、悲しそうに見えた。背の高い、大人の男の人なのに、迷子の子供みたいな瞳をして、僕のひざに頭をのせてじっとしていた。そうして懺悔するみたいに、また私は獣に近づいた……、と呟いた。人間からはとっくに遠い存在なのだけれど、それでも人間を餌食として狩るのは精神的につらい、吸血鬼である以上受け容れざるを得ない摂理を、私は百年経っても受け容れられない、とディザイアさんは言った。あまりにもディザイアさんがつらそうなので、僕はひたすら可哀想になってしまって、人間だって、牛や豚や鳥や魚を殺して食べるよ、それと同じ事ではないの、などと自分が人間であることを忘れて言ってしまった。
ディザイアさんが生前仕えていた主人は僕によく似ているのだそうだ。伯爵家の跡取りで、まだ子供のうちにヴァンパイアになってしまったのだそうだ。百年近くずっと一緒に居たのに、行方知れずになってしまったらしい。ひどく傷ついているディザイアさんの頭を抱いて銀の髪を撫で、一生懸命慰めているうちに、僕は自分がディザイアさんの主人その人のような気分になっていた。
「すみません……、ミオの寂しさを紛らすつもりが、……私が慰めてもらってしまって……」
ディザイアさんはそう言った。ううん、大丈夫。あのあとモリヤは帰って来たし、今はわたしのそばにいてくれるから。……今のところは。
「今のところは?」
ディザイアさんはあの紅い瞳で僕の目をじっと見てきた。
「……ミオ、あなたは……何を、不安がっているのですか……?」