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ふるさと

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 彼女は一口麦茶を飲んで、コレ、薄かったわね、と素敵な小皺を披露した後に、
「ヒロクンは、私の教師生活で、五本の指に入るぐらいに手のかかる生徒だったわ」
 と言った。『五本の指に』から先は、私も一緒に声に出した。
「先生、おひさしぶりです」
 私はきちんとした挨拶をしていない事を思い出した。
「やーよ、あらたまって」
 彼女は、ひょいっと棒状のチョコを口に放り込んだ。
 しばらく近況やら世間話やらが続き、ふと彼女の左手の薬指の光が目に入った。
 その瞬間、私の記憶に住む大友先生は、二度と戻らぬ旅に出てしまった。

「結婚されたんですね」
 彼女は、ほんの少し驚いた表情を見せた。
「ヒロクンが卒業して二,三年たってからかな」
 と言いながら、私の左手を見た。
 私の薬指にも光はある。僕は一昨年です。と言うと、彼女は、おめでとう、と一言だけの祝福をくれた。
「先生は、僕の二番目の恋の相手なんですよ」
「あら、一番じゃないのね?」優しく笑う。
「初恋は、トモコちゃんですよ。ほら、同じクラスで、すぐそこに住んでいた」
 私はトモコちゃんが住んでいた家の方向を指差した。

 それから小一時間程話しをしたあと、そろそろ行きますね、と別れを告げた。
 正面玄関で、来客用のスリッパから靴に履き替えていると、
「ヒロクン……」
 と言いかけて、元気でね、と素敵な小皺を披露してくれた。
 彼女は、何の用事で戻ってきたのかと訊ねたかったのだろう。間違いなく私のことを心配している、そんな目をしていた。
 私は何の用事でここに戻ってきたのだろうか。
 自問してみるが、返事はない。

 正面玄関の胸像の前に立った時、ふと、胸像の人物の名前を思い出した。
「ライス博士、でしたよね?」
 胸像は、肯定を意味する微笑を浮かべた。
 小学校の下校時刻を告げるチャイムが鳴り響く。
 振り向けば、風は優しく太陽は暖かい。故郷とはそういうものなのだろうか。

 故郷とはいうものの、ここには父も母もいない。
それどころか、かつて恋した女性さえも、ここにはいないのだ。


作品名:ふるさと 作家名:村崎右近