午前0時の桜吹雪
俺ももう子供じゃないんだ。俺は社会人なんだ。そんな言葉で幾度も自分を鼓舞したし、慰めたし、騙してきた。
「あの時、俺はどうすればよかったのかな」
口にするつもりもなかった想いが思わず言葉になってこぼれた。頬をつたっていた涙をぬぐう。
脇に放り出した鞄から、カバーの掛けられた新書本を取り出す。大型書店の真新しいカバーを外し、あらわになった本の表紙に目をやった。
『嫌な上司と付き合う30の法則』と銘打たれた表紙を見る。
やりきれない気持ちが、自虐的な笑いになってこみ上げてきた。
「この本、ぶつけてやりゃ良かったかな」
無用の長物と化したビジネス書をどうしようか考えていると、隣のベンチの脇にゴミ箱を見つけた。もう一度表紙に目をやる。ゴミ箱までの距離は目測で10メートルほどだろうか。
「入るかな」
バスケなんてやったことはないが、自分の中の雰囲気でフリースローの構えを取る。なんとなく入る気がした。
自らの手元から、10メートル先のゴミ箱へと迷いなく伸びる放物線を頭で描き、それをなぞる様にして――投げた。
綺麗な縦回転が掛かり、緩やかな放物線を描いて本はゴミ箱へと、吸い込まれていきはしなかった。力をこめすぎたのだろうか、手を離れてまもなく、本が開きパラパラとページがめくれる。不安定な形に変形し、空気の抵抗をまともに受けると、ゴミ箱から数メートル手前の地面へとむなしく落ちた。理想の放物線を描いたイメージは、現実のものへと容赦なく書き換えられる事になった。
無残に捨てられた本を見て、一瞬このままでもいいかと少し思ったが、やはりちゃんとゴミ箱に捨てることにした。膝に手をあて、腕の力で自らを押し上げるように立ち上がる。このままではポイ捨てになってしまうという罪悪感よりも、あの本が捨ててあるのを誰かに見られたくないという情けない羞恥心が勝った。
表紙を上にして地面に落ちている本を拾おうと近づき、身を屈めたその時、また風が吹いた。屈んだ体を後ろから追い抜くようにして吹き抜けた春風は、その勢いで地面に散らばった無数の桜の花びらを巻き上げた。
ゴクリッと喉が音を立てたのをはっきりと聞いた。