午前0時の桜吹雪
あの時、酒井が俺のことをどんな風に思ったのかはわからない。心の底から見下していたんだろうか。そうは思いたくもないが。真面目で人の良さが評判の、弱々しい笑みを顔に張り付かせては自らを省みずに人のお節介をやくような、そんな酒井にあんな冷たい目を向けられてしまうような状況に俺はあるんだろうか。それとも真面目な酒井だからこその、あの反応なんだろうか。
頭痛が苛烈さを増した。
4月の半ば。桜の花もほぼ散り終えたかという時期ではあるが、夜はまだ少し肌寒い。にもかかわらず汗が止まらなかった。汗をぬぐう気も起きなかったので流れ出るままに放っておく。顎の先から地面へと垂れる汗を目に留めつつ、一歩。また一歩。
右手には去年、就職祝いにと親父に買って貰った革の鞄。貰った時、テカテカとやたらに光沢を放つ新品の革の具合が正直あまり気にいらなかったのだが、そんな俺の様子を敏感に感じとった親父が言った言葉は今でも印象に強く残っている。
「若造が良い鞄を持つなんて生意気なんだ。この鞄が使い込まれて良い味になってくるころには、その鞄に似合う大人になってるんだよ」
その日、珍しく深酒をして上機嫌だった親父は、そう言って笑った。
仕事関係の書類は全部会社で捨ててきたから、中に入っているのはハンカチやティッシュといった身の回りの品や最低限の筆記用具、それと新書本程度のものだ。重いはずがあるわけのないその鞄が、強い力で指に食い込んでいる気がした。
半ば足を引きずるようにして、一歩。また一歩。足元を一心不乱にみつめながら、自宅へと住宅街を進む。駅から徒歩8分程度のはずの帰路が途方もなく長く感じられた。
そこへ横から一陣の風が舞った。汗で濡れ、額へと張り付いた前髪をかき上げられて、ふと歩みを止める。顔を上げ、風が吹いた方向へと目をやると、そこには小さな公園があった。
1台のシーソーと、2脚のベンチ。そして、手狭な公園には不似合いな大振りの桜の樹が一本。それだけの公園だった。
「……少し休むか」
切れ間のない頭痛も、重苦しい鳴動を続ける内臓も、全てが煩わしかった。それになによりこれ以上歩きたくなかった。