さあ、行きましょう
発端はもちろん黒船の来港だが、治安悪化の最大の理由は幕府の威光の衰えである。
国の中枢が揺らぎ、公的な権力による取り締まりもゆるみ、世情はますます不安定になる。
犯罪に走る者が増えたことで、真っ当に暮らしていた者たちが江戸を離れることも少なくない。
この先どうなるのか。
もしかしたら幕府は倒れるかもしれない。
そんな考えが、久坂の脳裏をよぎった。
けれどそれは理性が冷静に告げることで、胸のうちに素直に落ちない。
幕府の定めた厳格な身分制度の中で生きてきて、それにとらわれているのだろう。
「さっき高杉が言ったことなんだけど」
「はい」
「僕は政治家向きで、そのうち藩の重鎮にまでなるんじゃないかってさ」
声をひそめて話す。
「ありえないよね」
僕は貧乏長屋生まれの医者の三男なのに。
高杉には言わなかったことを口にした。
幸いにして、今は困窮しているというほどではないし、藩の権力者たちから眼をかけられているので発言力も多少はある。
だが、本来の自分の立場からすれば、ゆくゆくは藩の重鎮になるなぞ、起こりうるはずのないことだ。
他家に養子に入るのは、次男以下にはよくあることだが、家格があまりにも違いすぎる家に迎え入れられることはないだろう。
それなりの家格の武家の養子縁組には藩の許可がいり、その許可がおりないはずだから、話も来ない。
結局のところ、高杉は良家の子息であって、自分とは感覚が違うのだろう。
あるいは。
自分よりも発想が自由なのかもしれない。
いや、しかし。
普段の言動を考えれば、むしろ高杉は頭が硬いほうだ。
身分が高いことを誇りとし、傲慢ともいえる行動をすることもある。
また、松風と似ていて、真っ直ぐすぎて融通がきかず、説得するのに手を焼くこともある。
「それに」
ふと思いついたことを、そのまま言う。
「もしかしたら、そのうち藩がなくなるかもしれないし」
ただし、さっきよりもさらに声をひそめた。
「それは不穏なことを」
寺島の声もひそめられている。
だが、その声音に非難するような響きはまったくない。
「内緒話だ」
「だれにも言いません」
もちろん信頼しているからこそ話した。
素の自分が出たのも、隣にいるのが寺島だったからだろう。