さあ、行きましょう
ふと。
「失礼します」
硬い声がした。
聞き覚えのある声だ。
障子が静かに滑り、開いたところから長身の青年が入ってきた。
寺島忠治郎、高杉や久坂と同じく、松風の門下生である。
高杉や久坂よりも年上に見えるが、実際は、年下だ。
久坂とともに郷里から江戸へとやってきた。
いや、久坂に連れられて、というのが正解だろう。
寺島の家は武家の階級においては無給通という家格であり、原則としては苗字を名乗ることをゆるされていない足軽や中間ほど身分は低くないが、士分と認められる身分の中では下のほうである。
さらに、寺島は長男ではないので、冷や飯食い、と呼ばれる立場にある。
裕福ではないし、権力もない。
藩の役職に就いているわけでもない。
そんな青年に江戸行きの許可が藩からおりたのは、どうせ、久坂が裏から手をまわしたからだろう。
我が藩の上層部は久坂に甘すぎる。
つくづく、そう思い、高杉は苦虫をかみつぶしたような表情になった。
そんな高杉に向かって、寺島は頭を深く下げた。
高杉は軽くうなずいて見せる。
少し間を置いてから、寺島は視線の先を転じた。
「久坂さん、そろそろ」
「ああ、そうだった」
なにか思い出したような表情になり、久坂は立ちあがった。
それを眼で追い、高杉は問う。
「なんだ、これからなにかあるのか」
もう夕刻である。
冬の日の暮れるのは早く、暮れれば、寒さが増す。
その上、久坂は江戸に来たばかりだ。
どんな用事があるのだろうか。
「ああ」
久坂が寺島のほうにむけていた顔を、ふたたび、高杉のほうに向ける。
「江戸に入ってしばらくしたころ、道で、偶然、知り合いに会ったんだ。その知り合いから、招きを受けた。ひさしぶりにこちらに来た僕の、歓迎の宴を開いてくれるそうだよ」
「それにしたって、今日ついたばかりじゃねェか。忙しい話だな」
招くほうは気楽なものかもしれないが、招かれるほうは長旅の疲れがある。
高杉は眉根を寄せた。
すると。
「さっき言ったよね、僕もできる限りのことをするって」
春の陽ざしのようにのどかに話していた久坂の声音が、ほんの少しだけ、鋭くなった。
「招いてくれたのは、親交を深めておけば、あとあと有利になるかもしれない相手だ。それに、他にも声をかけると言っていたから、それなりの人々が集まるだろう」
久坂の頬に笑みが浮かぶ。
「宴で、詩を吟じてほしいと頼まれた。もちろん、引き受けたけど、そのついでに、僕の話も聞いてもらうつもりだ」
あでやかな、ひとの眼を惹きつける、笑み。
その笑顔にたいていの者はだまされるが、久坂はかなりしたたかである。
腹黒いと言ってもいいぐらいだ。