さあ、行きましょう
「高杉がこちらに長くいて、いろいろと動いてくれているから、本当に助かっている」
気を取り直したように久坂は穏やかに微笑んだ。
長いといっても、高杉がこの江戸に来てから、ようやく一年半が過ぎた程度である。
高杉は学問のために江戸に来ている。
学問がよくできるから、ということもあるが、江戸遊学が決まったのは、おもに親の心配があったからだ。
高杉は一人息子だ。
その大切な跡継ぎが、この御時世に、危険な攘夷思想を持つ者を師と仰いでいる。
過保護なぐらいに一人息子を可愛がっている両親は、その状況を憂慮した。
そして、松風と離すために、高杉を江戸へと旅立たせたのだった。
だから、高杉は師が藩の獄舎に入ることになったときには江戸にいて、情報を得ることすら難しい状況に歯がゆい想いをし、そして、師が幕府から呼びつけられたときは、その到着を江戸で迎えることになった。
「牢名主への付け届けも欠かさずしてくれているらしいね」
「地獄の沙汰も金次第ってヤツだ」
高杉は皮肉まじりに鼻で笑う。
牢の中にも階級があり、その頂点にいて牢内を支配するのが牢名主である。
その牢名主に付け届けをすると、牢内での待遇が良くなるのだ。
もちろん、その牢内にいる牢名主に付け届けをするために、牢の外から番をする役人の牢番のほうにも付け届けを欠かさずにいる。
幸いにして、高杉の家は裕福であり、郷里からの仕送りは少額ではない。
それでも足りなくなったときは、江戸にいる同郷の者に支援を頼んだ。
頭を下げるのは嫌だが、今はそんなことにこだわっている場合ではない。
「僕も、こちらにいるあいだは、できる限りのことをするよ」
「……そういえば、おまえは、この江戸でもずいぶん名前を知られてるな」
久坂が江戸に来たのは、今回が初めてではない。
旅好きで、しかも、藩政府が久坂に甘くて比較的簡単に許可を出すため、江戸に限らずいろいろな場所によく出かけている。
高杉が江戸に来て驚いたことのひとつは、他藩の者まで久坂の名前を口にすることだった。
久坂はまだ郷里の藩校の学生にしかすぎないのに、である。
清州藩の若者といえば、久坂義人。
そう評する者も多い。
郷里では、高杉は久坂とともに高く並び立つ者として、双璧、と呼ばれている。
だが、そのことについてこの江戸で触れたことはない。
評価というものはあとから付くものであって、先に自分から言うべきものではないと考えているからだ。
郷里ではそう呼ばれていたと言ったところで、相手の評価がそうでなければ不審に思われるだけだろう。
「ここに来たばかりのときには、他藩の者からも、さんざん、おまえの近況について聞かれた」
「へえ」
「おまえは政治家向きだ。そのうち、藩の重鎮にまでなるんじゃないか」
久坂は頬に柔和な笑みを浮かべた。
しかし、なにも言わず、相づちさえ打たなかった。