さあ、行きましょう
やがて、目的地である屋敷のまえに着く。
両側に長屋を従えた長屋門がある。
門は左右に扉が開く両開き門だ。
その右側にはくぐり戸があり、左側には物見窓がある。
武家の身分によって門構えが定められているので、門を見れば格式がわかる。
もちろん眼のまえにあるのは、格式の高い武家の屋敷だ。
久坂は来訪を告げた。
美声が夜気に響く。
ほどなくして、門扉が開いた。
久坂は寺島とともに門の向こうへと足を踏み入れる。
過去に何度か訪れたことのある屋敷だ。
邸内も格式の高さを感じさせるが、久坂は気後れすることなく、堂々と進んでいく。
玄関で武士が待っていた。
この屋敷の主に雇われている侍である。
顔見知りだ。
「お待ちしておりました」
丁寧な態度で、訪ねてきた久坂に対応する。
久坂は微笑む。そこだけ光が差したような、人の眼を惹きつける笑みである。
だが、それは表面上のことだ。心から笑っているわけではない。
今こうして対応している武士は、久坂よりも歳上だ。
身分が低いのだろう。
しかし、だからといって、久坂のほうが上だとはいえない。
なにしろ自分は長屋生まれの医者の三男で、郷里の藩校の学生にしかすぎないのだ。
けれども、この武士の眼に久坂はその様には写っていない。
主が招いた大切な客人、それ以上のものとして写っているのが感じられる。
虚構を見ているのだ。
そう、胸のうちで苦笑する。
これから宴で、この屋敷の主やその友人たちのまえで詩を吟じ、機会を見つけて、こちらの主義主張を聞いてもらう。
久坂は弁舌が巧みだとまわりから評されている。
本人としても自信はある。
だが、その本人は自分の言うことも虚構のように感じている。
詩作は自分の心の動いたままの本音だが、論述はそうではない。
すべて虚構というわけではないものの、自分の都合良く相手を動かすために心にもないことであっても言う。
それでも、その言葉で相手に感銘を与えることができるのだ。
喜ぶべきか。
少し皮肉な気分になる。
しかし、今は、そんなことは枝葉末節だ。
今このときも松風が獄舎にとらわれていることを思えば。