荒野を往く咎人
丁寧な世話の後が伺えるピラミダリスと石英岩で拵えられたアプローチを進むと、透き通る歌声が響いてきた。トマスはその歌に導かれるように歩を進める。
純白と黄金色に染まったフラワーアーチを抜けた先、大鷲の彫像の傍らに歌声の主は居た。
豪奢なドレスを嫌味なく着こなした美女は、薫る風に艶やかな髪をたなびかせている。
集まった小鳥たちの囀りと噴水の水音にのせて、自らの声のみを頼りに天上の旋律を紡ぎだす彼女の存在に、トマスは暫し心を奪われた。
怒りも悲しみも、ましてや感動など荒野の果てで忘れたはずだった。
にも関わらず。
慈慕と煌びやかさを兼ね備えた存在感を放つ一人の美女に、修羅の贖罪の果てにとうに色あせていたはずのトマスの情動が揺さぶられる。
トマスが忘我に立ち尽くしていると、美女がトマスの存在に気づき、笑顔を向けた。
「あら、トマス」
この時、美女の呼ぶ名が自らの本来の名前で在ることにトマスは気づけなかった。長き間トマスは、誰一人トマスという彼の真の名を呼ばぬ荒野を歩んだ。幾度にわたりトマスは、彼の知らぬ彼となり数多の人々から異なる愛を受けた。トマスの中で、自分はトマスである、という自我はとうに失われていたのである。
だからトマスは幾多の世界でそうしてきたように、この世界で自分はトマスという人間なのだと半ば機械的に頭に覚え込ませる。そして、眼前の、恐らく手に掛けねばならなくなるであろう美女に対して問いかけた。
「君は誰だったかな」
刹那、美女の微笑みが激しくゆがんだ。深く刻まれた眉間の皺が意味するものは、憤怒だろうか、悲哀だろうか。しかし凄絶な表情を浮かべたのも束の間、美女はすぐさま笑顔を取り戻すと、何事も無かったかのようにトマスの問いに答えた。
「何を言ってるのよ、もう。私よ、――――よ」
突如、美女の言葉をさえぎるかの様に、小鳥たちがいっせいに飛び立った。重なり合う羽音でトマスは彼女の名前を聞きそびれる。
しかし、トマスは内心胸を撫で下ろしていた。相手を深く知れば知るほど、その命を奪うときの絶望と自身の呵責は深く昏いものとなるからだ。
その後、美女の名を知ることないまま、命豊かな世界でトマスは美女との愛を深めていった。
誰かの愛を受け続ける日々を送る事は、徐々にトマスの凍てついた心は溶かしていく。