心の中に
与吉は上機嫌で語りかけたが、娘は終始、無言だった。
ふと、岩場の陰で娘の姿が消えた。与吉は慌てて娘の姿を探した。
「おーい、娘さーん。どこへ行っただーっ?」
山中に与吉の声がこだまする。だが、折からの濃霧で視界は極端に悪い。
すると、霧の中に黒い人影が見えたような気がした。
「何だ、そこにいただか」
与吉がその人影に歩み寄ろうとした。
一歩、二歩と足を踏み出す。
三歩。しかし、そこに足場はなかった。
与吉はそのまま、崖から真っ逆さまに転落していった。
「うわーっ!」
与吉の絶叫が幾重にも反響し、山間にこだました。
落下する際、与吉の脳裏に浮かんだ光景があった。それは清楚な娘が、女の怨念をたぎらせた鬼女へと変わり身する様であった。
「あ、あれが鬼女……!」
そんなことを与吉は呟いた気もする。しかし、その後は深い闇に閉ざされてしまった。
崖の上では娘が呆然と崖下を眺めていた。そこへ、馬に乗った役人がやってきた。
「殺(や)ったか?」
「はい」
娘が力無く答える。
「鈴丸とか言ったな。そちの活躍には殿も殊の外お喜びじゃ」
役人が満足そうに笑った。霧も次第に晴れてきた。
「私、いつまでこんなことを続ければ……」
「たわけ。越境して他国へ逃げようとするものあらば、それを抹殺するのがそちの役目だろうが。以前、我が藩の乱波(らっぱ)のくノ一に任せたら、沢に身を投げて狂い死にしおったわ。殿は伊賀者のそちに期待されておる。しっかりお役目を果たされい」
馬がいななく。役人は踵を返すと、鈴丸の前から足早に消えて行った。
鈴丸が小屋へ足を引きずるように引き返す。
小屋の中には与吉が鈴丸に与えた、一つの握り飯が残されていた。
鈴丸が懐から小さな鈴を出す。
「おとう……」
鈴丸の二つの目から滴の筋が流れた。
その朝、城下は晴れ渡っていた。山は依然として雲がかかっていたが、平野部は憎いほどの青空が広がっている。
刑場に引き連れられる、人の長い列。それは玉置村の農民たちであった。
昨夜、彼らは「踏み絵」を踏むことを強要された。しかし、村人の主、イエス・キリストへの信仰は厚く、誰ひとり、踏み絵を踏む者はいなかったのである。