心の中に
与吉の目は小屋の天井を見つめている。おそらくは、愛娘のスズのことを思い出しているのだろう。
「ところで、あなた様はこれからどちらへ行かれるのですか?」
娘は意を決したように、その言葉を切り出した。
この時、与吉は娘に心を許しかけていた。元々は武家か何かの出身で、わけあって苦界に身を落とされたものと勝手に想像する。そうすることによって、娘により親近感がわくのだ。
「儂はな、これから江戸へ行って直訴をするつもりじゃ」
与吉が唸るように言った。その瞳は炎をたぎらせている。
娘は「はあーっ」と重いため息をつくと、言葉を選ぶようにして喋り出した。
「直訴なぞ、みすみす死へと向かうようなものです。命を粗末にされることもありますまいに……」
「いや!」
与吉が娘の言葉を遮った。その身は乗り出し、片膝を立てている。そして、懐から仁助の書いた直訴状を取り出した。
「この訴状にはな、村人みんなの想いがこもっているだ。誰かが行かねばならねえ」
「それで、あなた様が?」
「そうだとも。儂はな、クズみたいな人間じゃ。今まで人のために何もしてやれなかった。女房が死んだ時も、娘が売られた時も何もしてやれなかった。だが、こうして初めて人様のために役立てる時が来たんじゃ。儂はやるぞ。必ず直訴してみせる!」
与吉が熱く語るのを、娘は悲しそうな面持ちで聞いていた。
この時、与吉は己の主張を熱く語ることに夢中になり、娘の目が潤んでいることに気が付かなかった。
「それで、命を落としたら何にもなりませぬ」
「いや、必ずご老中様の駕籠先へ」
「それが危ないと申しておるのです!」
娘の口調が強くなった。
しかしこの時、与吉には娘の立場や心情を理解するだけの余裕がなかったのである。
「お前さんに村人の想いの重さがわかるって言うだか?」
与吉もまた語気を強めた。
「わかりました。それでは夜が明けたら、隣国へ抜ける道を案内しましょう」
娘は諦めたように、静かにそう語った。
すると、与吉の顔はほころび、三日月のような唇から白い歯が覗いた。
「それは有り難い。よろしく頼むだ」
だが、娘は背を向け、与吉と目を合わせようとはしなかった。
翌朝、鬼女山の山頂は濃霧に包まれていた。三寸先も朧(おぼろ)にしか見えぬ。そんな中、与吉と娘は小屋を出た。
「いやあ、お前さんのお陰で助かっただよ」