心の中に
「鈍い奴よのう……。この前の河内屋が一件じゃ」
「あの一件がどうかされましたか?」
「たわけたことをしてくれたわ。あの場に居合わせた尼がご老中や寺社奉行たちまでをも動かし、圧力をかけてきおったのだ」
「げっ!」
「だから申したであろう。隠居した方が身のためだと……」
「な、何とかなりませぬか?」
哀れな小物が若年寄の膝に縋り付く。
「これはばかりは金を積まれても無理な話じゃ。やはり金で職を買っても、その方は奉行の器ではなかったようだのう……」
富田刑部がその場に、ガクッと項垂れた。
かつて「世の中はすべて金」と豪語していた者の威厳は、もはやどこにも見られなかった。
さて、それから半月ほど経ったある日のこと。八坂兵十郎がふらりと河内屋の暖簾をくぐった。
「失礼致す。旦那に所用でござる?」
番頭の平次が深々と頭を下げ、卯兵衛を呼んでくる。
「これはこれは八坂様。その節はお世話になりました」
卯兵衛も丁寧に頭を下げた。
「ようやく世間も落ち着いてきたようだのう」
「私らは何もしておりませんよ。それより今度のお奉行様はいかがですか?」
「うむ、頼もしきお人よ」
「それはようございました」
「ところで、実はお主に返す物があってのう」
「返す物……、ですか?」
卯兵衛がキョトンとした。
「さよう。これじゃ」
八坂兵十郎は懐から一本の簪を取り出す。
「こ、これは!」
卯兵衛はその簪を見て驚愕した。それもそのはずである。簪はその形こそ、それとはわからぬように細工をしてあるが、紛れも無く、茂吉の形見が十字架であった。
「しかし、どうしてこれを?」
卯兵衛が狐につままれたような顔をしながら、八坂兵十郎を見た。八坂兵十郎はニタリと笑って言った。
「あの狸奉行め、それを証拠の品としてではなく、懐へ仕舞うつもりで己が引き出しに入れておいたのだ。銀ならばそれなりの値打ちになるからのう。それを拙者が持ち出し、知り合いの飾り職人に頼んだのだ」
「なるほど」
「あやつも今頃は慌てておるだろうて。まあお咎めなしということだから、問題にもならぬであろうよ。それに、その簪ならば誰も十字架とは気付くまい」
「恐れ入りましてございます。何とお礼を申してよいのやら」