心の中に
木村陣内は喘ぎながらも、太刀を引き抜いた。
長太郎と木村陣内の前に躍り出た者。それは一人の尼であった。
そう、元は伊賀くの一、鈴丸こと精進尼である。
精進尼はそっと長太郎の肩を抱いた。
「ここで見たり、聞いたりしたことは誰にも喋っちゃいけませんよ」
そう諭す精進尼の口調は優しく、瞳は慈悲の色を湛えていた。
長太郎は黙って頷いた。
「さあ、お行き……」
長太郎は踵を返すと、一目散に駆け出した。
「ま、待ちやがれ!」
木村陣内が手を伸ばそうとするが、無論、掴めるはずもない。
「更なる手柄を求めるが故に、命を粗末にするか!」
精進尼がキッと木村陣内を見据えた。
「て、てめえはあの時の尼……」
「愛向尼院の精進尼じゃ。河内屋は我らにとっても縁のあるお方じゃ。今後も手を出そうものなら、命の保障はいたしませぬぞ」
「ううっ、あ、尼ごときに……」
「私はかつて松平伊豆守様に仕えし伊賀者なれば……」
「な、なんと!」
木村陣内が目を丸くした。
「此度はその首が撥ねられなかっただけでもよろしゅうござりましたこと」
木村陣内はその場にガクリと堕ちた。
自分たちを取り巻く包囲網は、思いのほか強固であることを思い知ったのである。
精進尼は「ほほほ」と高笑いを残し、屋根へと跳んだ。老いたとはいえ、もう常人の目で追うことは不可能であった。
北町奉行、富田刑部は若年寄の蔵内主膳が屋敷に呼びつけられていた。
蔵内主膳は富田刑部に茶の一杯も勧めぬ。
「富田様、火急の用とは一体、何事でござりましょうか?」
「うむ、そのことだが……」
蔵内主膳が軽く咳をした。富田刑部の顔に緊張が走る。
「実はその方も、そろそろ隠居してはどうかと思ってのう……」
「何を仰せられるかと思ったら……。それがしはまだ、奉行に着任致して二年でござりまするぞ」
「いや、その方の身を案じればこそなのだ」
蔵内主膳の口は歯切れが悪い。
「どういうことでございましょうか?」
富田刑部が詰め寄る。
「うむ……、さる筋から話があってのう……」
「それは合点がいきませぬ。それがしは蔵内様に大金を積んだのでござるぞ。奉行の職をそう容易く手放すわけにはいきませぬ!」
富田刑部は顔を高潮させ、早口で捲くし立てた。蔵内主膳は扇子で頭を掻きながら、「ちっ」と舌打ちをし、富田刑部を睨み付けた。