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心の中に

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 八坂兵十郎の手の温もりに後押しされるように、長太郎が踏み絵に乗った。か細く、華奢な足が確かに板切れの上に乗った。
 卯兵衛もおみつも安堵の胸を撫で下ろす。二人は抱き合い、歓喜に涙を流したという。
 その姿を見て、密かに瞳を濡らすもう一人の者があった。精進尼である。
「ええい、無罪放免じゃ」
 富田刑部は座りもせず、ぶっきらぼうにそう言い放つと、すぐにその場を離れた。
 八坂兵十郎の瞳が卯兵衛を見る。かつては己がキリシタンとして捕らえた男だ。だが、その瞳はどこまでも優しい。
「何も心配はござらぬよ」
「この度はお世話になりました」
 卯兵衛はすべてを悟ったかのように、八坂兵十郎へ頭を下げた。そして、精進尼にも一礼する。
 河内屋一家は結束を固めたような塊となりながら、北町奉行所の門を後にした。

 河内屋一家が店へ帰ると、平次が明るい笑顔で迎えてくれた。
「ご無事だと思いましたよ」
「そりゃそうさ。私たちは悪いことはしていませんからね。いや、しているかもしれない。けれど、それを常に悔い改める素直さが必要だよ」
「ごもっともで……」
 かなり疲れたのだろう。おみつも二人の子供も奥の座敷でぐったりとしていた。
「旦那様も少し休まれちゃあ……」
 そう言う平次に、卯兵衛は「いや」と言い、長太郎と妙を自分の前に座らせた。
「お前たち、よく辛抱したね」
 妙はキョトンとしていたが、長太郎は俯き、やがて嗚咽を漏らし始めた。
「ううっ、お父様、ごめんなさい……」
「十字架のことは気にしなくてもよい。それよりお前は、何故、踏み絵を踏むのを躊躇ったのだ?」
「わ、わかりません……」
 長太郎が項垂れながら答えた。それは事実、長太郎にもわからなかった。
「お前はおそらく、踏み絵に描かれたマリア様やイエス様に、何とも言えない神々しさを覚えたからに違いあるまい」
 長太郎が黙ってうなずく。
「だがな、あの絵の中に神はいないのだ。神は神のみ国とお前の心の中にいるのだ。わかるか?」
 長太郎がハッとしたような表情をして顔を上げた。どうやら卯兵衛の話を理解したようだ。これが普通の七歳の子供であったら理解はできなかったかもしれない。幼くして囚われの身になるという、極限状態を体験して初めて理解できる事柄なのかもしれない。
 卯兵衛は優しく微笑んでいる。
「よい体験になりましたこと」
作品名:心の中に 作家名:栗原 峰幸