心の中に
そう言って、北町奉行所に乗り込んできたのは若年寄の蔵内主(しゅ)膳(ぜん)であった。駕籠を乗り付けて若年寄が奉行所くんだりまでやってくるとは、緊急事態と見ねばならない。富田刑部はこの蔵内主膳に賂を積んで出世したとの、もっぱらの噂であった。
「おお、これは蔵内様。いかがなされました?」
富田刑部が驚いた表情で平田主膳を迎えた。蔵内主膳は奉行所の奥座敷へとズカズカと上がり込む。
「どうなされました? 随分と慌てられたご様子」
「どうしたもこうしたもないわ。お主、河内屋を踏み絵も踏まさずに、火あぶりにしようとしているらしいのう?」
「げっ、どこでそれを?」
富田刑部の顔色が変わった。
「お主が己の傘下で好きにやる分には文句は言わぬ。しかし、比度は精進尼様を通じて寺社奉行まで絡んできてのう」
「精進尼?」
「うむ。元は松平伊豆守様のご側室じゃが、今でも陰でそれなりに顔の利くお方じゃ。たかが側室上がりの尼と言うても、怒らせると恐ろしいとの、もっぱらの噂でのう。その精進尼様がもう一度、踏み絵を踏ませろと申してな。何でも精進尼様が直々にご検分なさるそうじゃ」
「な、何と、それではもう……」
「うむ。もう白州に来られる頃じゃ」
富田刑部が愕然とした。先程までの笑みは消えうせ、顔は青ざめている。
白州には踏み絵が用意された。聖母マリアが赤子のイエス・キリストを抱いている絵が、彫られた木の板切れだ。
白州には精進尼が目を瞑り、黙している。
そこへ河内屋の一家が引きずり出された。富田刑部も蔵内主膳も姿を現す。その二人は白州を苦々しい目で見つめていた。
筆頭与力、八坂兵十郎は卯兵衛たちに寄り添いながら、踏み絵を踏むように促している。
卯兵衛にもおみつにも躊躇いはなかった。その木彫りの板切れの中に神はいないことを知っているからである。己の信じる神を殺さぬ限り、神は栄え、神のみ国で永遠に生き続けるのだ。
長女、妙はわけもわからずに踏んだ。
躊躇ったのは長太郎であった。やはり、聖母マリアとイエス・キリストに神々しいものを感じたのであろう。足がすくみ、止まってしまったのである。
その肩に八坂兵十郎がそっと手を置いた。
「臆することはない。この中に神はい申さぬ。いつの世でも役人とは形にこだわるものでござるよ。躊躇わずに踏まれよ」