心の中に
「これで河内屋も仕舞いじゃろうて」
富田刑部が笑いを堪えて呟く。その顔は満足そうだ。
「お奉行様のお役に立つことができまして、光栄に存じます」
どうやら木村陣内は富田刑部の腰巾着のようである。
「おお、この度は手柄であったな」
富田刑部が袖の下から銀銭を数枚、木村陣内に渡した。
「はっ、有り難く頂戴致します」
そう言って、己が袖の下に銀銭を仕舞う仕草が、いかにも卑しい。
「これからも、儂のために尽くしてくれるな。出世は約束しようぞ」
「ははーっ、有り難き幸せにございまする」
木村陣内が恭しく頭を下げた。
「ところで、あの河内屋一家はどうするので?」
「ふふふ、踏み絵など踏ませる必要はない」
富田刑部の細い目が殺気に満ちていた。
「……と、申されますと?」
「踏み絵は踏まなかったことにすればよいのじゃ」
「なるほど」
木村陣内が納得するように笑った。その笑い方は卑屈で、限りなく野蛮だ。
「くくっ、明日にはあやつらの火だるまが見られるて」
富田刑部の眼光は鋭く、まるで何かに取り憑かれているようだった。
だが、二人とも側耳を立てる男の存在に気付いてはいなかった。筆頭与力、八坂兵十郎である。
八坂兵十郎はそのまま忍び足で奉行所を出ると、一目散に駆け出していった。彼は江戸の闇夜に消えた。
それから半刻ほど後、八坂兵十郎の姿を愛向尼院の門前に見ることができる。
「火急の用でござる。精進尼殿はおられるか!」
閑静な門前に野太い声が響いた。
程なくして門が開き、中から尼僧が出てきた。
「私が精進尼ですが、こんな夜更けに、一体何事ですか? 騒々しい……」
いささか精進尼の目付きは険しい。
「拙者は北町奉行所、筆頭与力、八坂兵十郎と申す。火急に相談致したき儀があって参った所存」
八坂兵十郎の息はまだ切れていた。
「当院は寺社奉行が管轄。それに尼寺故、男子禁制であることを、その方も存じていようぞ」
「しかし、河内屋一家の命に関わることでござる」
「何と!」
精進尼も事態の重さを察したようである。
「では、裏の離れでお話を伺いましょうぞ」
「かたじけない」
精進尼は禁を破って、八坂兵十郎を愛向院の中へと迎え入れた。
愛向尼院の離れで八坂兵十郎は精進尼と向かい合っていた。
「夜更けの上、何分内密の話ゆえ、もてなしはでき申さぬが……」