心の中に
平次がにこやかな笑顔で語りかけた。
「かたじけない……」
そう言って項垂れる八坂兵十郎の目から一筋の滴が垂れた。
八坂兵十郎は平次に、もう一度、一礼をしてその場を後にした。
「八坂様……」
八坂兵十郎が畦道に戻った時、その背中に声を掛ける者があった。
八坂兵十郎が振り返ると、そこに立っていたのは卯兵衛であった。
「河内屋殿、見ていなさったか」
「はい。ちょっと気にかかりましたものでね」
「いや、お恥ずかしい次第で」
八坂兵十郎が頭を掻いた。
「もし、お勤めで困ったことがありましたら、愛向尼院という尼寺の精進尼というお方にご相談されるとよろしいですよ。今は亡き松平伊豆守様のご側室であった方でございますが、迷うた時に良い知恵を授けてくれるかもしれませぬ」
「何から何まで、河内屋殿には世話になり申す」
八坂兵十郎は卯兵衛にも頭を下げ、その場を立ち去った。
卯兵衛と平次は肩を並べて、木村兵十郎の背中を見送った。
「大丈夫。八坂様なら、自分で自分の道を見つけなさいますよ」
心配そうな顔をする卯兵衛に、平次はそう言って聞かせるのだった。
おみつは仏壇を拭き清めていた。だが、すぐに異変に気付いた。位牌の後ろに隠しておいた十字架がないのだ。
おみつは知っていた。近頃、長太郎が十字架を気に入り、手にしたがっていることを。
おみつの心に妙な胸騒ぎが走った。
長太郎は近所の子供たちと遊んでいた。箒を持ちながら、チャンバラごっこに興じている。それを刺すように睨みつける眼差しがあった。木村陣内である。
定町廻りの同心である木村陣内が、そこにいても何ら不思議ではない。お役目と言われればそれまでである。
長太郎は近所の子供と一対一で、応戦していた。激しくぶつかる箒と棒切れ。
ふと、長太郎の体勢が崩れ、転んだ。そして、その懐からくすんだ銀の飾り物が落ちた。
それを木村陣内が見逃すはずもなかった。
「坊や、それをおじさんに見せてくれるかい?」
木村陣内がしたり顔で長太郎を覗き込む。長太郎が煤けた銀の十字架を咄嗟に懐へと仕舞った。
「このガキ。それを出せって言っているんだ!」
木村陣内が恫喝し、無理やり無骨な腕を、華奢な胸にねじ込んだ。
「あっ!」
「くくく、いい土産ができたぜ。坊や」
木村陣内がニターッと不気味に笑った。