心の中に
「ようござんしょ。果し合いはお引き受けいたしましょう。武士のしがらみから放たれたところで、精一杯に自分の力を出し切る場所も必要でしょうからね」
「おお、かたじけない」
八坂兵十郎がムクッと起き上がり、平次の手を握った。
翌日の暮れ六つ、浅草は塩入土手の原っぱで対峙する二人の男がいた。八坂兵十郎と平次である。
二人の手には木刀が握られていた。どうやら、平次は果たし合いを了承したからには、全力で戦うつもりであった。
「存分に参られい」
そう言う平次の口調は、かつて持立藩で禄を食んでいた頃の、青木平内を彷彿させる。そう、今、彼の中には武士の血が甦り、熱くたぎっているのだ。
「いざ……」
八坂兵十郎が木刀を正面に構える。平次も同じく、正面に構える。両者は間合いを計っていた。
大川から吹きおろす風が、男たちの髷を乱す。だが、両者とも動じぬ。いや、動けぬのだ。
平次の草鞋がジリジリと、八坂兵十郎ににじり寄っていく。次第に木刀の距離が縮まる。
両者の額からは脂汗が滴っていた。
間合いは十分に詰まった。木の枝に留まっていた烏が、飛び立ったその時だった。
八坂兵十郎が上段に大きく振りかぶった。
「やーっ!」
平次は咄嗟に木刀を横一文字に構え、八坂兵十郎の木刀を受け流す。
それは呆気なかった。
ほんのちょっと小手先を叩いただけで、八坂兵十郎は木刀を落とした。
平次はほとんど身体を動かしてはおらぬ。横にヒョイと身を躱しただけのようにも見える。しかしながら、僅かな動作で八坂兵十郎の小手を奪ったことは、青木平内なる武士がそれなりの手練者であったことを物語っている。
「ううっ」
木刀を落とした八坂兵十郎が小さく呻いた。見ている者には、それほどの力が入っていないようにも思えたが、打たれた箇所は既に赤く腫れている。
「どうです、八坂様。すっきりしましたかい?」
八坂兵十郎は左手で木刀を拾うと、平次に一礼をした。
「ありがとうござりました。お陰で心の気鬱が少しは晴れ申した」
そう言う八坂兵十郎の顔は爽やかであった。
「宮仕えは辛抱が肝心。とは申せ、己の信念を貫くのもまた人の道。辛い時もあれば、良い時も来るもの。また気鬱(きうつ)になられた時は懐を貸しますぞ。その時は果たし状など持ってはこられるな。ちょいと店先で声を掛けてくれれば、それで結構ですよ」