心の中に
その敷居の低い奥座敷に八坂兵十郎と平次はいた。既に八坂兵十郎の顔は赤い。それに対して平次は素面が様子だ。
「今の奉行所は腐ってござる!」
「八坂様、お声がたこうございますよ」
慌てて平次が八坂兵十郎を諌めた。
「何の、拙者の行くところはもうござらん。先が見え申さぬのだよ。これも、あの狸奉行のせいでござる」
「本当に果し合いなんかで、気鬱が晴れるんで?」
平次がそっと覗き込むようにして、八坂兵十郎の顔を窺った。
「何度も申しておるように、拙者が拙者であることを確かめたいのだ。わからぬか、この気持ちが?」
八坂兵十郎は身を乗り出し、平次に詰め寄った。
平次は「ふう」とため息をつくと、視線を逸らした。
「まあ、わからないでもないんですがね……」
「そうだろう、そうだろうともよ。お主も元は武士だ。禄を食んでいたんだろう?」
どうやら、八坂兵十郎の酒は絡み酒のようだ。
「私は元持立藩士でさあ……」
「すると、あのお取り潰しになった……」
平次が黙って頷く。
「そいつは苦労しなすったなあ」
「いや、改易になって私はよかったですよ」
「ほう……」
「何せ、人を人と思わない主君でしたからな」
「領民を思えばこそ、でござるな。いや、平次殿は義に厚い。感服仕った」
「結果として浪々の身となり苦労もしたが、今はこうして河内屋の番頭に納まっている次第。ありがたき幸せでございまする」
「ふーむ……」
八坂兵十郎の面持ちが神妙になる。
「では、拙者に武士を捨てろと?」
「そうは申しておりませぬ。私の場合、藩が改易になってもお上が領民を救ってくださいました。しかし、お上の上に、お上はありませぬぞ」
「では、拙者にどうしろと?」
「それは私が教えるものではございませぬ。八坂様自身が見つけ出すものなれば……」
「ううっ、わからぬ……」
八坂兵十郎がひれ伏した。
「拙者はいつも奉行所が正しいと思うて働いてきた。それがために、卯兵衛殿を召し取ったこともござった。しかし、今の奉行所には貫き通すものなどござらぬ」
平次は「はあ」と深いため息をつくと、目を瞑った。
小料理屋「好乃」の中は喧騒に包まれていた。仕事帰りの職人が豪快な笑いを上げている。しかし、八坂兵十郎と平次の周囲だけは空気が澱んでいた。
しばらく経って、平次がゆっくりと目を開けた。