心の中に
平次は八坂兵十郎に深く頭を下げ、その場を立とうとする。
「いや、それには及ばぬ。今日は番頭殿に用向きがあって参った所存」
「はて、私に?」
平次が座り直した。八坂兵十郎が懐から書状のようなものを取り出す。
「これを受け取って頂きたい」
「こ、これは?」
平次が愕然とする。それもそのはずである。その書状には「果たし状」と書かれていたのだ。
「見ての通り、果たし状でござる。場所は浅草の塩入(しおいり)土手(どて)。日時は明日の暮れ六つで願いたい」
八坂兵十郎の面持ちは真剣そのものだった。平次はジロリと八坂兵十郎を睨み返した。
「八坂様、私は確かに以前、腰に二本の刀を差しておりましたが、今はこの河内屋の番頭にすぎませぬ。今更、果たし合いなぞ……。それに、理由がございません」
「理由は……拙者の都合でござる。ならば、木刀で願おう」
八坂兵十郎も引き下がらぬ。
「ふーむ。何か、よほどわけありのようでございますね」
「この辻先に『好乃』という小料理屋がある。店を閉めたら、そこで一献どうでござるか?」
「ようございましょう」
平次が膝をポンと叩いた。八坂兵十郎がフッと笑う。
その晩、木村陣内は事の顛末を南町奉行、富田刑部に報告していた。
「それにしても河内屋め、憎き奴よのう」
富田刑部は苦虫を潰したような顔をして、渋茶を啜った。
「お奉行は何故に、河内屋にご執着なさるのですか?」
木村陣内が少し詰め寄り、率直に尋ねた。
「うむ。ご定法に則った商いなど、このご時世ではできるものではないわ。その目こぼしの恩を忘れるとは憎き輩よ」
「確かに一理ございます。世の中、常に裏と表があると、拙者も心得てございます」
木村陣内が同調するように言った。
「ほほう、わかっておるな。それとな、世の中は金じゃ。金で白を黒にも、黒を白にもできるものじゃ。お主にだから申すが、儂がこの職が得たのも金の力じゃ」
「では噂は誠でござりましたか」
富田刑部が苦笑を漏らした。
「あの河内屋だけ、儂に菓子を包まなんだわ」
渋茶を啜りながら、宙を睨む富田刑部の一重瞼には殺気がこもっていた。
時を同じくして、八坂兵十郎と平次の姿を小料理屋「好乃」に見ることができる。
この「好乃」は羽振りのよい町人ならば、「ちょいと一杯ひっかけていく」にはもってこいの店だそうな。