心の中に
尼は卯兵衛とおみつの前へ正座すると、深々と頭を垂れた。
「卯之吉さんですね。お久しゅうございます」
卯兵衛には尼の正体がわからぬ。朧げながら、遠い記憶の断片に、その顔が刻まれているような気もするが、思い出そうとすればするほど、思い出せぬものだ。
「どこかで、お会いしましたかな?」
「不入谷の湯治場でお会いしました。あの頃の卯之吉さんはまだ子供でいらしたから、ご記憶にないのも無理のないことと存じます」
「ああ、あの時の……!」
どうやら卯兵衛の記憶が甦ったようである。尼の正体こそ、公儀隠密のくノ一、鈴丸だったのである。
松平伊豆守の側女となり、主君の死後は髪を剃り、出家をしたのであった。
「今は精進尼(しょうじんに)と申しまする」
卯兵衛が今や精進尼となった鈴丸の顔を繁々と見る。卯兵衛、いや卯之吉が忌まわしい呪縛から逃れられたのも、鈴丸が石見銀山を湯治場の主に盛って毒殺したからであった。卯兵衛にとって精進尼は命の恩人と言っても過言ではなかった。
「そうでしたか。お知り合いでござったか」
住職が目を細める。
「精進尼殿はわが寺にも縁のある愛(あい)向(こう)尼院(にいん)の尼僧でな。時折、こうして見えられるのじゃよ」
それにしても、何という奇遇であろう。年月を経て卯の吉と鈴丸がこうして再会しようとは。一日でも墓参りの日がずれていれば、この再会は果たされなかったであろう。
「しかし、人の奇縁(えにし)とは不思議なものでござるな」
卯兵衛がしみじみと言った。おみつはキョトンとした顔をしている。
卯兵衛はかつてのいきさつをおみつに語って聞かせるのだった。おみつはそれを黙って聞いていた。
「ところで、精進尼殿」
卯兵衛が改まって、精進尼の方へ向き直った。
「何でしょうか?」
精進尼はかつては修羅場をくぐった忍びとは思えぬほどの穏やかな笑顔を崩さぬ。
「尼僧になら、わかり申そう。人の本当の救いの道とは何でござるか?」
卯兵衛は食い入るように精進尼の顔を見つめた。かつて殺人まで犯し、己を救ってくれた者が宗教の道に身を置いているのであれば、それは卯兵衛にとって是非とも聞いておきたいことだったのである。
精進尼は視線を床の畳に落とした。どことなく哀しい瞳は、今まで非情な任務をこなしてきた者が持つ色を湛えている。なで肩には寂寥が漂っていた。