心の中に
卯兵衛とおみつがお百度参りをすると、信じられないことに、何とおみつが懐妊した。
おみつは「神様からの授かり物」と言って大層喜んだそうな。
(人とは不思議なものよな。生まれる時は神社に願をかけ、死ねば寺で経を上げて供養してもらう。私が心の中で救い主、イエス・キリストを信じてもよかろう……)
卯兵衛は喜びを噛み締めながらも、今ある幸福を神のみ国と心の中にいる聖母マリアと救い主イエス・キリストに深く感謝したのである。そして今までの辛酸までもが、今につながるように思われ、神の導きについて深く考えるのだった。
ふと、卯兵衛が物思いに耽っていると、おみつが嬉しそうに言った。
「神社の神様と、イエス様にも感謝をしなければなりませんね」
卯兵衛の顔がほころんだ。
おみつが身重となって、三月ほどが経とうとしていた。河内屋の商いもすこぶる順調で、卯兵衛はてんてこ舞いの日々を送っていた。
重そうな腹を摩り、卯兵衛が言った。
「そう言えば、忙しさにかまけてお前のおとっつあんや、おっかさんのお墓参りにも行ってなかったね」
「嬉しい。私の父母のことも気に掛けて下さっていたのですね」
「無念のうちに亡くなった者は、丁重に葬り、供養してやらねばならない。近いうちにお墓参りに行こうではないか」
おみつは嬉しそうに卯兵衛に抱き着いた。
梅雨のうっとうしい長雨が、ほんの一休みしたある日。その日は久しぶりに晴れ渡るような青空が覗いていた。
そんな江戸の街を二つの駕籠が行く。卯兵衛とおみつを乗せた駕籠である。向かう先はおみつが父母と弟の墓がある、突光寺だ。
突光寺は河内屋からも歩いて行けぬことはないが、何せおみつが身重の身だ。駕籠を使ったのは、卯兵衛の心くばりであった。
突光寺は閑静な寺である。鬱蒼とした木立に囲まれた林の中にひっそりと建っている。この時代の神社仏閣の門前には露天商や香具師(やし)たちが軒を連ねていたものだが、この寺にはそのようなものは見当たらぬ。
駕籠はその寂れたような門の中へと入っていった。
四半刻後、寺の本堂で住職の上念和尚と談笑する卯兵衛とおみつの姿を見ることができる。おそらくは、墓参りを済ませ、世間話に花を咲かせているのであろう。そこへ、一人の尼が来た。年齢にして四十がらみの品性の良さそうな尼である。
我々はこの尼を知っている。