心の中に
「こいつぁ、縁起のいい話だ。河内屋を立て直す時には、俺も一肌、脱ごうじゃねえか」
親方が袖を捲った。
いつの間にか、どんよりした雲は流されて、空にはお天道様が輝いていた。冬の太陽にしては、いやに眩しい光だった。
それからというもの、卯之吉とおみつは材木問屋、河内屋の立て直しを行った。おみつは父親の商売を見てきただけのことはある。陰ながら夫を支え、あっと言う間に河内屋を元の規模まで戻してしまったのである。
それに卯之吉にも商いの才能があったのだろう。卯之吉は河内屋卯兵衛と名を改め、店は繁盛をした。
おみつの両親や弟の墓は近くの突光寺(とっこうじ)に奉られている。
ある日、卯兵衛は神田の明神長屋を訪ねた。片手に初鰹を携えて。
長屋の辻では女将さん連中が、井戸端会議に花を咲かせている。卯兵衛は「ちょいと、ごめんよ」と言って、その中に入った。
すると一人の女が「あら」と言って、卯兵衛を見た。卯兵衛はニヤッと笑う。
「おかねさん……、でしたね。よりを戻しなすったので」
「あの時の……。嫌だね、恥ずかしいじゃないか」
「その節はお世話になりました。商いを始めましてね。順調なんでさ」
卯兵衛が丁寧に頭を下げた。その丁寧さは、十字架を返された時と何ら変わっていない。
そう、声を掛けた女とは、かつて十字架を質入しようとして米を恵んでくれた、「亀屋」のおかねだったのである。
「そりゃ、よかったじゃないか。で、何を始めたんだい?」
「今は河内屋卯兵衛と申します」
「河内屋? じゃあ、あ、あの……」
おかねが仰天し、言葉に詰まった。
「これはほんの気持ちで……」
卯兵衛が初鰹を差し出した。
「初鰹じゃないか!」
初鰹は当時、三分が相場であった。それだけに、庶民がなかなか口にできる代物ではなかったと言われる。
「私は昔、佃島に住んでいましたからね。馴染みが漁師も多いんでさ」
「嬉しいけど、米一升と初鰹とじゃ釣り合わないよ」
「私があんたに米を恵んでもらった時は、もっと嬉しかったよ」
卯兵衛はそう言って、初鰹の尾をおかねに握らせた。
「本当にいいのかい?」
おかねが上目づかいで尋ねる。
「もちろんですとも」
「うちの宿六、腰を抜かして恐れ入るだろうね。何せ、初鰹だからね」
「うふ、あはははは……」
卯兵衛がさも可笑しそうに笑った。