心の中に
平穏な暮らしが戻って数日後、卯之吉とおみつの元を訪ねる者があった。おみつはその者を知っていた。
「儀兵衛さん……」
「まあ、おみっちゃん、よくご無事で。心配しましたよ」
儀兵衛と呼ばれた男は円満の笑みをおみつに投げかける。そして、卯之吉に一礼して言った。
「私は大阪で材木問屋をしている近江屋儀兵衛と申します。亡くなられた河内屋さんに大層恩義を受け、懇意にさせていただいていた者です。この度、河内屋さんの一件を聞きまして、お力になれることがあればと思い参りました」
儀兵衛の言葉遣い、物腰とも非常に丁寧で、人柄の良さが滲み出ている。
卯之吉は一目見て儀兵衛を信頼した。そして今や夫婦の契りを交わしたおみつの態度をみても、彼が信用に値する人物であることは十分見て取れたのである。
「あなたが卯之吉さんですね。噂は大阪まで届いております。実はお二人にもう一度河内屋さんを立て直してもらおうと思っておりまして今日は来ましたのや」
その儀兵衛の言葉に卯之吉とおみつは顔を見合わせた。そして儀兵衛は二人の前に三百両もの大金を積んだのである。
「もう、お二人は夫婦になられたも同然とお見受け致しますが、ご異存はあらへんでしょうな?」
だが、おみつの顔は曇っている。卯の吉はわかっていた。おみつはまだ、河内屋の惨劇が脳裏から消えてはいないのだ。
「河内屋さんを襲うた盗賊のことが心配なんでっしゃろ。何だったら用心棒でも雇えばよろし」
おみつの顔がハッとした。卯之吉の顔からも緊張が解れる。卯之吉の脳裏にはある男の顔が浮かんでいた。
しばらく二人は呆けた顔をしていたが、おみつが涙を流してひれ伏した。卯之吉も後に続く。
「ありがとうございます。何とお礼を言ってよいのやら……」
「何の何の、礼には及びまへん。実は私が商いに失敗した時、河内屋さんが助けてくれましたんや。これで少しは恩返しができるというものですわ」
儀兵衛は急に関西訛りを一層露わにし、打ち解けたように話し始めた。
儀兵衛は帰り際に言ったものである。
「おみっちゃん、その簪、似合いまっせ」
青木平内はその日も左官屋で土をこねていた。相変わらず、その土は水分が多く、ぐちゃぐちゃであり、とても使い物にはなりそうにない。
「先生、やっぱりあんたは使い物にならねえよ。今日限りで辞めてくんな」