心の中に
「いいですか、卯之吉……。今、お前がしなければならないのは生きることです。生きておみつを幸せにしてやることです。お前が今までの罪滅ぼしをしたいと言うのならば、おみつの望みどおりにしてやることです。おみつにはお前が必要なのですよ」
そう言って聖母マリアは消えた。
「ああっ、マリア様!」
卯之吉はマリアの消えた方へ手を伸ばす。そして次の瞬間、夜具を跳ね除けて起き上がった。
(ゆ、夢か……?)
しかし卯之吉にはどうしても夢には思えなかった。
時を同じくして、八坂兵十郎が北町奉行、加納主税(かのうちから)に呼び出されていた。
この時代、科学技術が未熟だった故に、捜査は聞き込みや密告に頼り、そして下手人を捕らえてからは、如何に自白に追い込むかが手腕の見せ所とされていた。こうした中で、法を逸脱した捜査や拷問により、冤罪も多数発生していたものと推測される。
しかし、この加納主税という男は規律を重んじ、法を遵守するよう部下に徹底していたのだ。そんな彼を尊敬する者は多かった。彼の在任中、「北町に法ありき」と謳われたほどである。
「どうじゃ、あの卯之吉とやらは自白したか?」
行灯の陰に鎮座する加納主税が、八坂兵十郎に尋ねた。
「いや、それがただおみつを匿っただけと申すのみでございまして……」
八坂兵十郎が恭しく頭を下げながら答える。
「だろうな」
「と、申されますと……?」
八坂兵十郎が頭を上げた。
「お主らが卯の吉の身辺を当たったが、何も出ては来ぬ。河内屋一家殺害は一人では不可能じゃ。下手人は他におる」
加納主税が腕を組み、深く目を瞑った。
「では一体、何物が?」
「儂の勘だがな。これは蛍火一家の仕業ではないかと思う」
「蛍火一家! あの凶盗の」
「うむ。やり口が前の倉田屋の時に似ているとは思わぬか?」
「そう言われてみれば」
八坂兵十郎も腕を組み、深く考え込む。
「この件では既に火付盗賊改方も動き出しておる。あるいは火盗との捕り物合戦になるやもしれん」
加納主税が深いため息をついた。そして渋茶を啜り、苦虫を潰したような顔をする。
「で、あの卯之吉はいかが致しましょうか?」
八坂兵十郎が加納主税に詰め寄った。己が手で召し捕った者の始末について案ずるのは、しごく当然のことと言えよう。