心の中に
卯之吉は知っていた。聖母マリアがキリストを抱いている絵を故郷の村で見たことがある。だから目の前に立つ女性が聖母マリアだとすぐに認知できたのだ。
「ああっ! マリア様!」
卯之吉は両手を組んで、聖母マリアを仰いだ。卯之吉は別にキリシタンではない。
幼い頃、両親の導きによって洗礼を受けていたかもしれないが、それは本人の与り知らぬところであり、キリシタンという自覚はなかったのである。
しかしこうして現実に聖母マリアが目の前に現れたということは疑いようのない事実であった。
聖母マリアは静かに言った。
「卯之吉、そんなに自分を責めてはいけませんよ。人は生きていれば、どんな過ちも犯すもの。そして善い行いもするもの。それに異性に劣情を抱かぬ人はおりません。お前は立派に悔い改めて、おみつに誠意を表しているではありませんか。その誠意は必ずやおみつに伝わります。今は喋ることができないおみつですが、雪が春の日差しで溶け出すように、お前の温もりによって心も解けていくでしょう」
その言葉を卯之吉は項垂れて聞いていた。しかし、卯之吉には罪の意識が根深いのだろうか。泣きながら申し立てた。
「お、俺は、私は罪深い男です。食べるためとはいえ、今まで散々盗みを重ねてきました。そして今度は、おみつまで不幸にしようとしています。やはり盗っ人があの娘を幸せになんかしてやれなかったのです」
「卯之吉、それは違います。おみつにはお前が必要なのですよ」
聖母マリアが諭すように言った。しかし卯の吉は頭を振る。
「私はもう駄目です。捕まった時に胸元から十字架が落ちました。おそらく踏み絵を踏まされます。今までの私なら何の躊躇いもなく踏んだことでしょう。しかし今、こうしてマリア様に出会えた私に踏み絵を踏むことなど……」
その先は言葉にならなかった。卯之吉はただただ手を組み、項垂れて泣いた。
「踏み絵など臆することはありません。踏みなさい。そもそも我らのことを信じぬものが作った紙切れや板切れの中に、我らがいるとお思いか? 私たちは神のみ国に、そしてお前の心の中にいるのですよ」
その言葉に卯之吉がムクッと顔を上げた。そして聖母マリアの顔をまじまじと見つめる。