心の中に
夜更けになっても仁助の家からは明かりが消えることはなかった。仁助が直訴状を書いていたのだ。
「おとう。まだ寝ないのか」
小用に起きた息子の卯之吉が仁助に声を掛けた。
「おとうは仕事があるんだ」
「仕事なら田圃だべ」
「いいから、早く小便して寝ろ」
この時、まだ卯之吉には父親が何をしているか知る由もなかった。
仁助は村人の血の滴るような想いを込めて、訴状を書いていく。行灯の油がジリジリと音を立てている。その音は焦る村民の心を表しているかのようだ。
「あんた、あまり根を詰めると、明日に響くだよ」
妻のよねも心配をして声を掛けるが、仁助の筆は止まらぬ。
「おらはな、直訴に申し出ただ」
「えっ?」
よねの顔色が変わる。自分の夫が死ぬかもしれないという話に、動揺しない妻はいないだろう。当時、後家となった者の暮らしぶりは豊かではなかった。
だが、それ以上に、己の愛する者の身を案じるのは、しごく当然のことと言えよう。
「ところがだ、与吉どんが名乗りを上げてくれただ。与吉どんは、直訴するのは自分しかいないと言い張ってな。みんなで決めただ。そして、おらが訴状を書くことになっただ。だから、おらは何が何でも、心を込めてこの訴状を書き上げなければならねえ。わかるか?」
よねは正座をして、はらはらと涙を流した。
「まるで、人身御供だな」
よねが唸るように呟いた。
「そうだ。人身御供みたいなもんだ」
そこへ、小用から帰ってきた卯の吉が駆け寄った。
「おかあ、何で泣いているだ?」
「何でもねえ。何でもねえだよ」
よねは強く卯之吉を抱き締めた。
次の日の夜。与吉は脚絆を着けて旅支度を整えていた。その与吉を村人が見守る。
仁助が与吉に歩み寄ると、訴状を渡した。
よねも歩み寄る。その手には笹の葉に包まれた握り飯が握られていた。
「じゃあ、儂は行くだ」
与吉は村人に一礼をすると、月明かりの夜道を歩きだした。だが、闇はやがて彼を呑み込み、その姿は消えていった。
村人たちは会合を開く小屋に集まり、与吉のために祈りを捧げた。掌を組み、救い主、イエス・キリストに祈りを捧げる。
その時だった。
「手入れだーっ!」
一人の村人の声で、小屋の中の皆の背中が、一斉にビクッと跳ねた。叫んだのは見張り役の村人だった。
「やべえ。早くマリア様と十字架を隠せ!」