心の中に
おみつは相変わらず口を利かなかったが、家事をこなし、帰る卯之吉を温かい笑顔で迎えてくれた。
「おっ、笠子(かさご)ではないか。どうしたんだ、これ?」
そうおみつに問うても返事など返ってくるはずもない。卯の吉は台所の脇に釣竿が置かれているのを見た。先日の釣りを見よう見まねでやったのだろう。どうやらおみつが釣りをして、おかずを調達してきたらしい。
ちなみに、笠子とは根魚の一種で、やはり煮魚などにして美味い。
「お前、おみつと言うらしいのう。良くできた子じゃ。よほど父母の教えが良かったのだろうて。それをあいつら……」
家族の話になると、おみつは耳を塞いだ。目も固く瞑り、震えている。そのおみつの様を見て、卯之吉はハッとした。
「こりゃ、いけねえ。嫌なことを思い出せちまったな。せっかくお前さんが煮てくれた笠子だ。有り難くいただこうじゃねえか」
ようやく見習いとして左官屋としての仕事に就いた卯之吉。今までの盗っ人稼業からは足を洗い、新しい門出を迎える。そんな卯之吉にとって、おみつが夕餉を作って迎えてくれるだけでも有り難かったし、その温もりが嬉しかった。
(こんな幸せが俺にもあったなんてよう……)
そんなことを考えると、自然に目頭が熱くなる卯之吉であった。
卯之吉は甲斐甲斐しくも、よく働いた。その真面目な働きぶりは親方も認めるところであった。
「卯之吉、お前、本当に土をいじるのは初めてか?」
親方の目には卯之吉がこねる、土がどうしても駆け出し者には見えなかったのである。
「へえ、ガキの頃、百姓で土を少々いじったことはありやすが、左官は初めてで」
左官が壁塗りを始められるようになるのは、一人前の職人になってからである。
卯之吉のような駆け出し者はまず、脚で土をこねることから始める。これが微妙な水加減など、なかなか難しいものなのだ。
「ふふふ、百姓育ちで土の扱いには慣れてるってわけかい。まるで土がお前さんに懐いているようだぜ。見ねえ、あの浪人の『先生』を。二本差しにやらせりゃ、あの体たらくだ」
見れば、浪人がわずかな生活費を稼ぐためであろう、必死に土をこねているが、それはグチャグチャでとても使える代物ではない。
「大体、お前の歳で来た奴は使い物にならねえんだが、お前はいい職人になるぜ」
「へえ、ありがとうございます」