心の中に
奥から中肉中背の、筋肉質の男が出てきた。左官屋の親方だ。
「うちは人が余っているくらいだ。まあ見習いなら使ってやらんこともないが、使い物にならなかったら、辞めてもらうよ。何せ、ろくに働きもせず、能書きだけ垂れる先生方の面倒を見るので、うちは精一杯でさあ」
親方は卯之吉を一瞥すると、そう言い放った。
だが、今の卯之吉にとっては仕事があるだけでも有り難かった。この時の卯之吉は、自分が盗っ人であることなど、すっかり忘れていた。市井の町人の一人として、左官屋の門をくぐったのである。
「しっかり、働きますので使ってやってくださいまし」
卯の吉は丁寧に頭を下げた。
「それじゃあ、今から早速、土をこねてもらおうじゃねえか」
ある日、仕事から帰った卯之吉は、釣竿を担いで海辺へと出た。おみつは相変わらず喋らなかったが、卯之吉の後についてきた。
佃島は四方を海に囲まれているため、釣りをするには格好の場所である。
卯之吉は海辺へ着くと、早速、釣り糸を垂れた。おみつはそれを黙って見ている。
寒風が吹き始めたこの頃になると、沖合いでは鯛や青物などが釣れ出すが、庶民が伸べ竿で狙う魚はそう多くはない。セイゴと呼ばれる鱸(すずき)の稚魚か、鱚(きす)、鯊(はぜ)、根魚くらいだろうか。
「ふふっ、ガキの頃を思い出すねえ……」
卯之吉の顔に笑みがこぼれた。
「俺の故郷ではね、笹熊川っていう川が流れていてね。そこでよく釣りをしたものよ。鯉(こい)だの鮒(ふな)だのがよく釣れてね」
卯之吉は物言わぬおみつに己の故郷の話を聞かせるのだった。
そうこうしているうちに、浮きが沈んだ。すかさず、卯之吉は竿を上げる。どうやら、釣りの勘は鈍ってはいないようだ。
「おっ、鯊じゃねえか」
抜き上げられたのは七寸ほどの立派な鯊だ。この季節の鯊は「落ち鯊」とも呼ばれ、越冬、産卵のために脂の乗りがよく、非常に美味である。夏ほど数は釣れぬが、卯の吉とおみつのおかずくらいの数なら釣れるであろう。今でこそ「てんぷら」の材料として重宝されている鯊であるが、当時の庶民に揚げ物ができるわけもなく、煮魚や甘露煮にするのが一般的であったという。
卯之吉は大事そうに鯊を魚籠に仕舞った。そして、再び釣り糸を垂らす。おみつは浮きをジッと見つめていた。