心の中に
男は心の中で呟き、月を仰いだ。懐より、何やら銀色の金属を出す。それは煤けた十字架だ。
「イエス様、申し訳ございません。今日も人様のものを頂戴いたします」
だが男は、そう呟いた後に「はあーっ」と深いため息を漏らした。そして闇の中に吸い込まれるようにして消えたのである。
この男こそ卯之吉であった。今や一人働き専門の盗っ人に身をやつし、夜街を徘徊しているのである。
盗っ人とは言っても、大金を盗んだりはしない。粗末な暮らしができる程の、僅かな金しか卯之吉は盗らなかったのである。
卯之吉は不入谷の湯治場で茂吉とはぐれてから、茂吉を探して歩いた。しかし、今日まで茂吉を探すに至っていない。
それからというもの、卯之吉は生きていくために、やむを得ず盗み働きをするようになったのである。
十両を盗めば首が飛ぶ時代である。それでも、他人の金銭を盗まねば、幼子が一人、生きていくことはできなかったのだ。ましてや福祉政策など充実してはおらぬ時代である。孤児は朽ち果てるか、したたかに生き延びるかしかなかったのである。
卯之吉は大きな材木商である河内屋に目を付けた。
ちょうど人通りもなく、忍び込むには今が絶好の機会だ。
卯之吉は路地裏へ回ると、通用口を確かめた。すると不用心なことに通用口は開いていた。
忍び足で河内屋の中庭へ潜り込んだ卯之吉はすぐに異様な気配に気が付いた。
(……! こいつは血の匂いだ!)
卯之吉が屋内へ入り、襖を開けると、何とそこには血だらけで倒れる河内屋一家の姿があった。
主はもちろん、五歳ほどだろうか、年端もいかない男の子までもが、母親の手を握ったまま息絶えていた。
「な、なんて酷えことしやがるんだ。こいつは凶盗の仕業に違えねえ」
卯之吉は自分が盗っ人であることも忘れ、盗賊たちの惨い仕業に憤りを隠せなかった。
確かに卯之吉も盗っ人である。人様の金銭を盗んでは、それで生計を営んでいる。しかし、凶盗のような殺生はしない。それは卯之吉の最も嫌うところであった。
世間から見れば、卯之吉も盗っ人の一人であり、まともにお天道様を見られない立場だが、殺生をしないことだけが卯之吉の心の支えであり、犯すべからざる倫理だったのだ。
その時、ガタッという音とともに衝立が動いた。
「ぬっ、誰でえ?」