心の中に
ちなみに、『いろはうたの脚』とは、いろはうたを七文字ずつ区切り、その脚とする部分を読むと「とかなくてしす」となる。これは一説によれば、暗号文とも伝えられている。鈴丸はこのままでは死罪となる与吉の運命を、いろはうたの暗号文になぞらえたのである。
そのことからして、鈴丸には忍びとしての腕もさることながら、かなりの教養があったことが窺える。
「しかし、あの者は関所破りをしておるな。罪は免れまい」
いささか険しい表情で、松平伊豆守が鈴丸を睨んだ。
「承知致しておりまする」
鈴丸が着物の帯を緩めた。シュッという乾いた音が、静かな書斎に響く。
「ほう、くノ一がそこまでして百姓の助命嘆願をするとはのう」
数日後。浅草の非人溜まりに、与吉の姿を見ることができる。髪は剃り上げ、そのなりは非人そのものだが、死罪は免れたようだ。
非人とは徳川身分制度において士農工商の更に下に設けられた身分で、一説によれば、庶民の政治への鬱憤(うっぷん)を晴らすために設けられたものだという。無論、その理由は言われなきもので、差別の対象となったことは言うまでもない。
その与吉を遠目に見る鈴丸の姿があった。その鈴丸に編み笠の男が近付く。
「大頭様……」
「鈴丸、うぬもうまくやったな。あの堅物の伊豆守様がうぬを側女にと、いたくご執心だそうだ」
大頭がクスッと笑ったのが、編み笠の中から漏れた。おそらく老体が鈴丸に齧り付いている様を想像したのであろう。
「では……?」
鈴丸は笑ってはいなかった。むしろ真剣な眼差しで大頭に問い返す。
「うむ。行くがよい。それが長生きの秘訣じゃて」
大頭は片手を上げると、小さなつむじ風を起こした。そして、それと共に消えた。
鈴丸は今や非人となった父親に背を向け歩きだす。そしてもう一度だけ振り返ると、足早に立ち去った。
それぞれの運命が別々の道を歩きだそうとしていた。
それから二十年の月日が流れた。
(今日はどの店に忍び込もうかな)
江戸の夜街を一人の男が徘徊していた。頬かむりをし、いかにも盗っ人の風情である。
丑三つ刻を過ぎた、静かな江戸の闇を、男は瞳をギラギラさせながら歩いていた。
空には半月が浮いている。満月ほどの明るさではない。
(ああ、今日もお勤をしなきゃあならねえのか)