心の中に
鈴丸の胸の中に熱いものが込み上げる。忍びとして非情なまでの任務を遂行してきた女の目から、滴が筋となって流れ落ちた。
鈴丸が物思いに耽っていると、大手門が重々しい音を立てて開いた。そして中から、共の者の行列を率いた松平伊豆守の駕籠が現れた。
与吉は意を決したように立ち上がると、駕籠に向かってまっしぐらに駆け寄った。
「ご老中様!」
「無礼者!」
数人の侍が抜刀し、白刃を光らせた。日の光が反射し、鈴丸は目を細めた。
数人の侍は松平伊豆守を警護しようと駕籠を取り囲む。
「ご老中様! お願いの儀がございます。持立藩のあまりにも酷い年貢の取り立てと検見を……」
「ええい! 恐れ多くもご老中のお駕籠先を乱す狼藉者! 斬り捨てるぞ!」
与吉の悲痛な叫びを中断するように、抜刀した侍が吠えた。
「待て。持立藩と言ったな……」
駕籠の中から声がした。そして静かに駕籠の窓が開く。
そこから覗く初老の男こそ、松平伊豆守、その人であった。
「持立藩は既に領主、持立時常の不祥事による死去が発覚しておる。その訴状、受け取ろうぞ」
「ははーっ、有り難き幸せに存じまする」
与吉が改めて深々と頭を垂れ、ひれ伏す。だが、その身体には無情にも縄が掛けられた。恐れ多くも老中の駕籠先を乱したばかりか、関所破りまで行っていたのである。罪は免れなかった。
与吉はこの時、死罪を覚悟していた。
その夜、松平伊豆守は書斎にて漢詩を紐解いていた。知恵者と定評のある彼は、常に勉学に勤しんでいたのである。だが彼もまた侍である。部屋に忍び込んだ人の気配を素早く察知し、小刀を引き寄せていた。
「誰じゃ?」
「さすがは伊豆守様……。気配は察知しても殺気がないのを見抜いておいでですね」
襖の陰に鈴丸の姿が浮かぶ。
「伊賀者か? くノ一など呼んだ覚えはないぞ。それに儂が刀を抜いても、そなたにとって躱すことくらい造作もなきこと。違うか?」
「恐れいりましてございます」
鈴丸が三つ指をつき、深々と頭を垂れた。
「して、用向きは?」
「本日、伊豆守様に籠訴をした、百姓めについてでございます。このままでは『いろはうたの脚』と思いまして」
「科なくて死す、か」
唸るように松平伊豆守が呟いた。