心の中に
「やらねばならねえだ。直訴状には村人全員の想いが詰まっているだ。儂は屑だ。娘を売り飛ばしたロクデナシよ。それでもようやく、人様のために役立つ時がきたのだ」
「私のために直訴を取りやめてはくださいませんか?」
お里が与吉に縋り付いた。その瞳からは大粒の涙がこぼれだしている。
「あ、あんた……」
与吉がまじまじとお里を見つめた。
お里は与吉に父親の姿を重ね、与吉もまた、お里にスズの姿を重ねていたのである。
「儂は遊ぶ気が失せたよ」
与吉がお里の肩を支えて言った。しかし、お里は食い入るように与吉を見つめる。
「私、お客を取らないと……」
「なーに、儂が婆さんに言わなきゃ大丈夫だ。それと、ひとつ頼みがあるんじゃが……」
その晩、与吉とお里は父娘として、布団の中でその温もりを感じながら寝た。遊郭の喧騒の中で、そこだけしっとりとした空間に包まれ、緩やかな時間が流れていったのである。
翌朝、お里は涙を流しながら与吉を送り出した。もう、二度と顔を合わせることはないであろう、かりそめの父親との惜別であった。
江戸へ戻った鈴丸に休息が与えられた。大頭から次の任務が命じられるまでの、つかの間の休息である。
その日、鈴丸は市井の町人の娘のなりをして、江戸の街を歩いていた。公儀隠密として、たとえ密命を帯びていなくとも、常に街を練り歩くのが忍びとしての性といえよう。
鈴丸はちょうど江戸城の大手門の前を通り過ぎようとしていた。大手門は江戸城の言わば表玄関である。
すると、物陰にひとりの痩せこけた男が潜んでいるのが目に入った。その粗末な衣装からして百姓らしい。齢の頃は四十半ばと言ったところか。
(あの男、ご老中に籠訴をするつもりか……)
籠訴とはいわゆる直訴のことで、老中に直訴をしても大抵の者が無礼討ちにされ、訴えが取り上げられた例は少ない。それでも百姓たちは、危険を顧みず、一縷の望みを賭けて直訴に及んだのである。
(哀れな……。今日は確か、松平伊豆守の……)
鈴丸は小さい頃に生き別れた父親の面影を、痩せた男の姿の中に見ていた。生きていれば男と同じくらいの齢かと思う。
男が一瞬であるが鈴丸の方を向いた。
「!」
それは他ならぬ与吉であった。
(おとう、やはり生き延びていたのか?)