心の中に
鈴丸はこの時、口こそ開かなかったが、茂吉がこっそりと逃げ出したのを知っていた。敢えてその時、何も言わずに茂吉の好きなようにさせたのだ。鈴丸が関わったからといって、茂吉の運命が変わるとも思えなかった。忍びという任務柄、それ以上に、過干渉を避けていたとも言えるであろう。降りかかる火の粉は払わねばならぬが……。
忍びというものは、いつでもその動向を誰かかしらから監視されているものである。密命を帯びた鈴丸に勝手な行動は許されなかった。
卯之吉と茂吉の運命の座標軸は、この時点から大きくずれていくこととなる。
江戸は有数の繁華街である吉原を一人の男が徘徊していた。
右往左往するその様からして、江戸には不慣れらしい。
我々はこの男を知っている。髪は乱れ、その面体こそやつれているものの、あの鬼女山から転落したはずの与吉であった。
では何故、崖から転落したはずの与吉が生きて、江戸にたどり着いたのだろうか。
実は鬼女山の崖から与吉を転落させたように見せかけた鈴丸であったが、その際、しっかりと命綱を与吉の腰に結わいていたのである。
役人の目を欺き、そのくらいの策を弄することくらい、くノ一の鈴丸には造作もないことであった。
こうして、与吉は一命を取り留め、無事に江戸までたどり着いたのであった。
与吉は吉原の喧騒に圧倒されている。そして、その顔には苦悶の表情さえ浮かべているではないか。
与吉には路銀がまだ懐に残っていた。玉置村を旅立つ時に、村人が苦労してかき集めたものだ。それを遊興に使うことが許されないことは、与吉とて重々承知していた。その路銀は村人の血と汗と涙の結晶なのだ。
しかし、直訴と同時に与吉にはほぼ死罪が待ち受けている。この世と決別する前に、もう一度だけ女子の肌を求めたいと思うことが、果たして罪となるであろうか。
それでも、踏ん切りのつかない与吉は遊郭の前を行ったり来たりするのだった。
「お兄さん、シケた顔してどうしたのさ?」
「パーッと遊んでおいきよ」
遊女たちが与吉に明るい声を掛けるが、与吉の浮かない顔は晴れぬ。
その時であった。一人の遊女が思い詰めたような面持ちで与吉の前に躍り出た。
「お願いです。私を買ってください!」