心の中に
密命を帯びたくノ一が裏街道を往く。くノ一の名は鈴丸。あの鬼女山に忍んでいたくノ一であった。その姿は鳥追に身をやつしていた。
領主の飼い犬として鬼女山で関所破りの見張りに立っていた鈴丸が、どうして任務を離れているのであろうか。
実は持立長門守時常が惨殺されし時、屋根裏に潜んでいた曲者とは鈴丸であった。
持立藩にも戦国時代からの生き残りの乱波集団がいないわけではなかったが、その技量からして伊賀者に比べるべくもなかった。あるいは藩と伊賀の間で約定があったやもしれぬ。
こうして鈴丸は、鬼女山の見張りに就くこととなっていたのである。
しかし、鈴丸には別の任務があったのだ。公儀隠密としての任務である。鬼女山の見張りをしながら、持立藩の内情を探っていたのだ。
藩主が家臣に惨殺されたとあれば、それは一大不祥事である。その実情を大頭に報告すべく、江戸へと発っていたのである。
密命を帯びた忍びは表街道を往かぬもの。常人の女子が裏街道を通ることはまずない。あるとすれば、それ相応の理由があり越境をする者か、鈴丸のようなくノ一くらいであろう。
鈴丸は既に隣国の不入谷に入っていた。ここは古くから隠れた湯治場となってはいるが、所詮は裏街道だ。
硫黄の匂いが鼻を突き、白い湯気が立ち上る。鈴丸はそこで小さな宿を見つけた。どうやら地元の湯治客を泊める、小さな宿らしい。
鈴丸もくノ一と言えど人の子である。温泉に浸かり、任務の疲れを癒すことを考えた。
「もし……、泊めてくださりませんか……?」
鈴丸の声に出てきた主は、浅黒い顔をした中年の男だった。その腹は異様に膨れている。
(この男……、肝の臓をやられている……)
咄嗟に鈴丸は男の病気を悟った。
「あっしが主の長吉でごぜえますだ。何せ山の中ですだ。たいしたものはお出しできませんが、まあ、せいぜいごゆるりとしていっておくんなせえ」
長吉の吐く息は酒臭く、昼夜を問わず酒を飲んでいるようだった。
宿の荒れようを見てもわかる。おそらく、こんな主のところに湯治に来る客など、そうはおるまい。
鈴丸が通された間で茶を啜っていると、外で長吉の怒声が響いた。
「やい、卯之吉に茂吉! 薪もロクに運べねぇのか! この穀潰しめらが!」