心の中に
時常公が叫ぶ。しかし誰ひとり、桑原左門に襲いかかる者はいなかった。左門の腕が立つことを承知していたのかもしれないが、理由はおそらくそれだけではあるまい。
「長門守。家臣は貴様の言うことを聞かぬではないか。貴様が上意だと言うならば……、これが下々の意だ!」
桑原左門が叫んだと同時に、白刃の閃光が走った。
「うぎゃーっ……!」
普段は物静かな藩主の間に、断末魔の絶叫が響いた。
正に一刀両断であった。桑原左門の鍛えられた刀は、持立長門守時常の骨を断ち、肉を引き裂いたのである。
桑原左門が振り返った時、家老の田島蔵人が一歩前へ出ていた。
桑原左門は田島蔵人の目を見据えると、おもむろに上着を脱いだ。そして脇差を抜き、腹へ突き立てる。
「我が主君は人に非ず。我、人として死すなり」
桑原左門はそう言うと、脇差で見事に己の腹を掻っ捌いたそうな。
切腹の痛みに耐えることは並大抵のことではない。それでも、左門にとってはさほどの痛みには感じられなかったのかもしれない。それは、悲憤のうちに自害をした愛妻の心の痛みと天秤にかけての話である。
「ううっ、みよ……、ぐうっ……」
とは言え、桑原左門の口からは苦しみのあまり、喘鳴が漏れる。
そこへ一人の侍が進み出た。みよが時常公の毒牙に掛かった時、廊下で下唇を噛みながら耐えていた、あの青木平内である。
青木平内は桑原左門の脇で抜刀して言った。
「拙者はお主の妻が殿に手籠めにされし時、何もできなんだ卑怯者だ。せめてもの詫びの印に介錯をさせてくれ」
「す、すまん……。礼を言うぞ……」
桑原左門の口元が緩んだような気がした。だが次の瞬間、情のこもった白刃が振り下ろされた。
「時常公は病死された。よって嫡男である千代松君が跡目を継ぐ手配を早速いたせ」
事の一部始終を見送った田島蔵人の、静かではあるが、重い声が響いた。一同皆、頭を垂れている。
「ご家老。桑原左門はどういたしましょうか?」
桑原左門の介錯をした青木平内が、田島蔵人に歩み寄り、尋ねた。
「我が藩の窮状を救いし功労者じゃ。夫婦ともども、丁重に弔ってやれい」
「はっ……」
青木平内は泣きそうな顔をしながらも、嬉しそうに返事をした。
だがこの時、城の屋根裏に一人の曲者が忍んでいることなど、誰ひとりとして知る由もなかった。