心の中に
卯之吉は十字架を強く握り締めると、川の流れの中へ放った。それはきらびやかな銀色を放ちながら、巻き返しの淀みの底へと沈んでいく。
その銀の十字架に近づく黒い影があった。
「岩魚(いわな)だ!」
卯之吉はおもむろに川に飛び込むと、十字架を咥えた岩魚のエラに指を突っ込み、抜き上げた。岩魚は岸へと放り上げられ、ビチビチと跳ねた。
おそらくは十字架がルアー(疑似餌)のような役割を、偶然にも果たしたのであろう。
「あんちゃん、そのクルスはやっぱり持っておいたほうがいいじゃねえのか?」
茂吉が岩魚を掴みながら、心配そうに卯之吉の顔を覗き込んだ。
「くっ……!」
卯之吉は下唇を強く噛むと、十字架を拾い上げ、また強く握った。今度は川に放り投げることはなかった。
「あんちゃん、今夜はこの岩魚と山菜でしのごう」
「そうだな。神様からのお恵みかもしれねえだ」
持立城を望む城下町に、仲睦まじい侍の夫婦がいた。桑原左門とその妻、みよである。
桑原左門は若き徒衆(かちしゅう)で、みよは嫁いで二年になる。まだ子はなかった。
江戸時代に入り、政治が安定してくると、武術をおろそかにする武士も目立ち始めた。食い詰め浪人の喧嘩ならいざ知らず、仕官する侍にとって、刀を振り回す機会など、そうざらにあるものではない。
しかし桑原左門は「武道は武士の嗜み」として、足しげく剣術の道場に通っていたのである。剣術の腕前もなかなかのもので、師範代を打ち負かすことも、しばしばあったという。
キリシタン狩りが行われた数日後の晩のこと。乱暴に桑原左門の住む、組屋敷の門を叩く者があった。
「騒々しい。何事でござるか?」
桑原左門が門を開けると、そこには上役である徒目付が立っていた。
「桑原左門。その方の妻、みよに殿が直々に問いただしたき筋があるとのことである。すぐに城へ参られい」
その言葉に桑原左門の顔色が変わった。
「問いただしたき筋とは、一体何でござるか?」
「言葉を謹めい。上意であるぞ!」
徒目付が青筋を立てて詰め寄る。その時、襖の陰からみよが顔を覗かせた。
「お殿様が私に詮議されるというのならば、城へ参りましょう。我が身の潔白は私自身で明かしてみせまする」
みよはそう言うと、軽く髪を整え、徒目付と共に夜の闇に消えていった。
桑原左門は妙な胸騒ぎを覚えながらも、みよを見送った。