知恵の実の毒
言語と鳴き声の違いは何か。それは紡がれる音ないしは文字と意味するものの間に明確な文法が存在するか否かである。
「いし」という言葉がある。これが「石」を意味する言葉として機能するためには発し手と受け手に「石である」という共通の認識が無ければいけない。
その認識が為されていない外国人にはその「石」という言葉は機能せず「ishi」という音にしかならない。
「ishi」という音を「いし」たらしめる言葉の意味の共通認識こそ「言語」の本質なのである。
対し、イルカなどが用いる鳴き声はその文法を本能に依拠している。彼らは音がなにを意味してるかを考えるまでも無く、直感的にその意味を感じることが出来るのだ。
泣き声と言語は意味を伝えるという機能においては大きな差はない。しかし文法を理解できる知能を持った存在同士が用いるという前提があれば言語の汎用性というものは大きな可能性を見せることなる。
異なる言語体系に生きるもの同士でも互いの言語の文法を解し、共に意思の疎通を図ることが出来る。
その証拠に我々は異なる言葉を話す外国の人間と意思の疎通が図れる。
これは人類が操る言語が他者にも理解できるような論理的構築で作られているからで、人類は後天的にそれを学び取っていく。
リルブロが行うコミュニケーションのツールもこの言語の特性が色濃く伺えた。
まず、もっとも特徴的なのは同種のリルブロでも群によって使う言葉が異なるという点である。これは種としての本能がなせる範疇の外側に彼らの言葉が置かれている証拠であり、その論を裏付けるように、リルブロの子供は周囲の大人たちが使う言葉を自分の使うべき言葉として、習得する事がわかった。
同じ親から生まれたリルブロの子供を親元で育てた個体と親元から離した個体で観察したところ、著しい言語能力の乖離が認められたためだ。
これはさらに、リルブロが後天的に、成育の過程で言語を習得するだけでなく、成熟した個体による言語教育が行われていることも明らかにした。
この様なレベルで言葉を解し運用するのは、自然界広しと言えども人類だけで、その常識をリルブロの発見は覆したのである。