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カサゴ

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 実家への挨拶以来、功一もこずえの実家へは時折顔を出していた。どうやらこずえの両親も功一を信頼してくれているようだった。それは功一が娘と同じ病気を患っていることよりも、どうも公務員であることの信頼が大きかったようだ。公務員であることの辛さを噛み締めていた功一であるが、この時ばかりは自分の立場に感謝した。
 八月の厚木の緑は美しく、流水の楚々とした雰囲気と相俟って、何ものにも変えられぬ風情がある。綿飴のような雲が千切れて飛んでいく空はどこまでも抜けており、陽の光が樹々に生命感を与えていた。
 そんな麗らかな午後のひとときを、こずえの脚は清らかな水と戯れて遊んでいた。
「こんなところが実家のすぐ側にあるなんて羨ましいな」
「あら、功一のアパートからだって近いんじゃないの?」
「まあね。でも来たことなかったよ」
「功一の実家の近くにも運動公園があるじゃない。広くて大きいの」
 功一はこずえとこんな会話ができる幸福が有難かった。ただ、刻一刻と復職の時期が近づいている。こずえを心の支えにしようと思うが、ここのところどうも気持ちが前に進まない。復職という現実が重く功一の心に圧し掛かり、その重圧で押しつぶされそうになるのだ。功一はここのところ、眠りが浅くなっているような気がしていた。
「俺さぁ、今月の下旬には職場復帰しなきゃならないんだけど、気が重いんだよね」
 功一が青い空を恨めしそうに見上げて唸った。
「復帰が辛いの?」
「でも、ここを越えなければ、何をやってもダメな気がするよ」
 功一がため息を漏らす。功一の背中をこずえがポンと叩いた。
「もっと軽くいこうよ、そうライトに。いざとなれば、先生に診断書とか書いてもらって、休暇の延長を頼んでみたら?」
「うーん、その手もあるんだけどなぁ。ますます立場が悪くなりそうで……」
「ふふふ、私なんか捨てるもの無くなっちゃったから、気楽なもんよ。私はね、功一さえいてくれればいいの。他には何もいらない」
「男の職場にはしがらみがいろいろとあるんだよ。おそらく出世街道からも外れる」
 急にこずえが真顔になって、功一に迫った。
「私には功一の出世なんて興味ないわ。幸せならばいいもんね。仕事と私のどっちかを選べって言われたらどうする?」
「そりゃあ……、こずえだよ」
 功一はやや後ろに仰け反って答えた。するとこずえは「嬉しい」と言って、腕を絡めてきた。

 その日は功一の診察日だった。
「ああ、休暇延長の診断書なら書きますよ」
 主治医はあっさりと言った。功一にしてみれば、随分と呆気ない言葉だった。主治医は眼鏡を指で押し上げながら、カルテに何か書いている。
「やっぱり、まだ良くなっていないんでしょうか?」
 功一は不安を隠せずに尋ねた。功一は昨夜もほとんど寝られなかったのだ。寝ても総長に目が覚める。ここのところ、よく見られる現象だ。
「入院した時よりずっと良くなっていると思いますよ。ただ、あなたのうつ病は重度でしたからね。脳の機能が回復には相当な時間がかかると思ってください。まあ、重度のうつ病の方でも日常生活を送れるくらいに回復する方は結構いますよ。ただ、復職のハードルはやっぱり高いですね。いざ、職場に向かっても足が震えて戻ってくるケースも多いです。まあ、焦らないことです。一歩一歩やっていきましょう」
 主治医は淡々と、説得するように言った。
「最近、睡眠は?」
「あまり眠れません。眠りが浅くて、朝方によく目が覚めるんです」
「それは良くないですね……」
 主治医が渋い顔をした。そして「眠剤を調整」などと独り言を呟いている。
「ところで神崎さんはご趣味を持っていらっしゃるんでしたっけ?」
「はい、趣味というか、最近釣りに行ったんです。面白かったですね」
「ほう、釣り、釣りね。釣りはリハビリにいいですよ」
「そうなんですか?」
「私の受け持つ患者さんで、毎日釣りに行ってうつが良くなった方が何人かいます。今、密かに治療法として研究もされているんですよ、釣りは……」
 その話には功一も驚きを隠せなかった。果たして釣りがうつ病に効果などあるものかと、疑いたくもなったが、釣りは神経を集中させてくれるだけでなく、大自然に囲まれた地球の息吹を感じさせてくれるものでもある。功一は「そんなものですかね」と照れるように笑った。だが、確認したいことは他にあった。
「あのー……、恋愛はどうでしょうか?」
「は?」
「今、お付き合いしている人がいるんですけど、彼女もうつ病で……」
 今まで功一は主治医にはこずえと付き合っていることを打ち明けてはいなかった。恋愛には相応のエネルギーが必要だ。それが果たしてうつ病とどのような関係にあるのか知っておきたかった。
「うーん……。お付き合いを始めたのは最近ですか?」
 主治医は顔を曇らせる。
「はい。退院してからです」
「新しいことはなるべく避けた方がいいんだけどなぁ。それに、相手もうつ病か……。もしかして、入院中に仲が良かったあの患者さんかな? まあ、しょうがないねぇ」
 主治医は頭をボリボリと掻きながら、視線を逸らした。
「まあ、野暮なことは言いません。神崎さんも大人なんだし……。兎も角、診断書は書いておきますよ」
 主治医はつまらなさそうに、机と向き合った。そんな主治医に功一は誠意を込めた一礼をした。

 結局、主治医には診断書を書いてもらい、就前の薬が追加になった。
 功一は受診した足で、厚木市内にあるアパートへと向かった。功一のアパートは厚木の旭町というところにある。少しばかり留守にしていたアパートでの雨戸を開け、埃を追い払う。掃除をしている時に、バッグから書類が落ちた。職場の回覧文書だ。功一が資源ごみに出すはずだった書類である。その紙切れに押された上司の捺印を見た瞬間、功一の心臓が「ドクン!」と大きく脈打った。そして、乱れた脈は動悸となり、きつく功一の胸を締め上げる。
(く、苦しい……!)
 気が付くと、他愛もない広報の回覧文書は掌から滲み出た脂汗で、じっとりと濡れていた。功一は慌ててその書類をバッグに仕舞うと、おもむろに煙草を取り出し、ベランダへ出た。そして、火を点けて大きく煙を吸い込む。光一の心に暗雲が垂れ込めていた。それは濃霧のような暗雲で、陽の光すら差し込む余地がない、暗澹たる気持ちだった。
(こりゃ、まだダメだな……。先生の言うとおり、復職はハードルが高いや)
 動悸はまだ収まらなかった。功一は煙草を吸い終えると、グラスに水を並々と注ぎ、セルシンという頓服の安定剤を口に放り込んだ。そして、一気に水で流し込む。功一が頓服薬に頼るのは退院してからというもの、これが初めてであった。薬にばかり頼っていられないという気持ちが功一にはあったが、この時ばかりは仕方なかった。
 頓服薬を飲んだ功一はベッドに身を投げた。心臓の鼓動だけが脳の中枢に響き渡り、反芻する。脂汗は全身から滲み出ており、シャツが身体に張り付くのがわかった。功一の脳裏にカサゴがまた岩陰に潜り込むイメージが重なった。
(俺は岩陰に隠れるカサゴか……。餌を貪るのはまだ先だな)
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸