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カサゴ

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 頓服薬はおよそ三十分でその効果を発揮する。功一はそれまでの間、締め付けられるような動悸と、滴る発汗の不快感に耐えなければならなかった。そして、心の奥底から突き上げてくるような不安感。何かに頼らなければ乗り切れそうにもなかった。
「ああ、こずえ、こずえ……」
 功一は無性にこずえが恋しくなった。すぐさま携帯電話を弄った。

 その日の夕方、功一とこずえの姿を「おかめ」の一画に見ることができる。「おかめ」は本厚木駅から合同庁舎の方へ向かったところにある老舗のホルモン焼き屋で、ここのホルモン焼きが功一の好みだった。厚木はホルモン、特にシロコロが有名な町でもある。一人暮らしをしていて、時々はここのホルモン焼きを食べに来ていた功一だった。
「ごめんね、急に呼び出したりしちゃってさ」
「ううん、ここでしょ、功一が前に言っていたホルモン焼き屋って?」
「うん。特にシロコロが美味いんだ。何せB―1グルメグランプリに輝いた厚木のシロコロだからね」
「それより大丈夫?」
 こずえが心配そうな顔をして、功一を覗き込む。功一の口元がフッと緩んだ。どうやら頓服薬は効いたようだ。功一の顔色はだいぶ良い。
「ああ、こずえの顔を見たら落ち着いたよ。実は先生に診断書を書いてもらってさ。休暇を延長することにしたんだ。とてもまだ復帰出来そうにないや」
 功一がやや自嘲的に笑う。こずえも釣られて苦笑した。
「お待ちどう様。シロコロにカシラ、ハツ、コブクロになります」
 そこへ、ホルモンが運ばれてきた。「おかめ」の肉は新鮮で、その色艶を見ているだけでも食欲がそそられる。
「あ、美味しそう。厚木のホルモンって有名だけど、私、まだ食べたことなかったのよ」
 早速、功一が七輪に肉を載せる。シロコロから脂が滴り、備長炭に垂れた。
「ホルモンはじっくり焼かないとね」
 二人はホッピーで乾杯し、肉が焼き上がるのを待った。こずえにとってホッピーも初めてだった。
「ホッピーってビールのような、それでいて違うような不思議な味ね」
「ホッピー自体にはアルコールが入っていないから、焼酎で割るんだよ。まあ、ノンアルコールビールを焼酎で割っているようなものだね」
 こずえは「ふーん」と頷きながら、ホッピーをチビチビ舐めている。功一はグイと煽った。
「でもさ、功一の休暇が延長されて良かったかも。一緒にいられる時間が増えたもんね」
 こずえが焼き上がったシロコロを愛しそうに摘んで言った。
「俺、これでも悩んだんだよ。今までは療養休暇、延長すると休職になるんだ」
「ふーん。どこが違うの?」
「給料とか人事面とかね。それに正直言って出世のことも考えたな。ドロップアウトするんじゃないかと思ってね。でもね、俺にはこずえがいる。それだけで幸せだと思ってさ」
「嬉しい……」
 ホッピーをチビッと舐めていたこずえがニンマリと笑った。
「ねえ、今度またカサゴ釣りに行こうよ。あの新健丸」
「それだよ。先生の話では釣りがうつ病に効くらしい」
「へえ、そうなんだ。でも何となくわかる気がするな」
「親父の話では新健丸はもうこの時期、カサゴの乗合船を出していないらしい。今、行くとするとイシモチかな。今年はだいぶ早くイシモチに切り替わったらしいよ。イシモチも面白いと思うんだけど、こずえはカサゴがいい?」
「そうね。毎回船に乗っていたんじゃお金が掛かるしね。じゃあ、この近くの港でカサゴは釣れないの?」
 こずえが肉をひっくり返しながら、素朴な疑問をぶつけてきた。
「多分、大磯港とかで釣れるんじゃないかな。まあ、食べられるサイズが釣れる保証はないけどね」
「いいじゃん。どうせリハビリなんだから」
 こずえが焼けたシロコロを頬張った。その口元が何とも言えないエロスを湛えていた。
 功一はこずえと付き合い、こずえを既に抱いていた。こずえを抱く時、アダルトビデオを意識などしない功一である。ごくありふれた普通の交わりを行うだけだ。
 功一は恐る恐る箸をコブクロに伸ばす。それは豚の子宮なのだが、まるでこずえの子宮を食すような錯覚に陥った。
(愛する人を食べてしまいたい……)
 そんな欲求が人間の本能の奥底には眠っているのかもしれないと思う功一だった。以前、外国で恋人を殺害し、食べてしまった青年がいたことを思い出した。その事件こそは嫌悪すべきことであるが、その青年の心境の一端は理解できると思ったのである。
 コブクロは功一の口の中で、エロティックな弾力をもって応えてくれた。
「美味しい……」
 こずえが笑みをこぼす。
「ああ、美味しいね……」

 翌日、市役所の人事課から功一に電話がかかってきた。それは「今後のことを話し合いたい」との内容だった。気は進まない功一であったが、診断書の提出もあるため、「明日伺います」と返答した。
 翌日の功一の足取りは重かった。市役所の前まで行くが、どうしても足がすくんでしまう。
「はあーっ……」
 それでも「伺います」と言った以上、人事課に顔を出さないわけにはいかなかった。功一は自動販売機でジュースを買うと、頓服の安定剤を口の中に放り込んだ。そして、自分に言い聞かせる。「大丈夫だ。絶対に自分は大丈夫だ」と。すると、にわかに足が動き出した。それも自然なリズムで。
「これなら大丈夫かな?」
 だが、市役所は予想以上に高い壁となって、功一の前に立ちはだかっていた。
 功一は人事課に赴いたことは、今までなかった。大体、人事課に呼ばれる職員は功一の知る限りでは、不祥事を起こした職員くらいだ。
 人事課は市役所の五階にあり、市長室も近い。そこは滅多に人が出入りすることのない、閑静なフロアだ。エレベーターで五階まで上がった功一は、そのフロアの静けさは異様なまでに功一を緊張させた。廊下に響く靴音さえ、功一の心臓を締め上げるのだ。
 人事課の入り口からフロアに入り、「神崎功一です」と末席の職員に告げた。
「少々、お待ちください」
 末席にいた職員が席を立ち、人事課長のところへ向かう。ここでも功一は緊張と退治しなければならなかった。
(頓服薬を飲んでおいて正解だったかもしれない)
 功一はそんなことを思ったりもした。
 歩み寄ってきた人事課長の第一声は「復帰するからには百パーセントの力を出してもらわないと困るよ」というものだった。それを聞いた功一は自分にかなりのプレッシャーを掛けられていろと感じたものである。ただ、緊張する功一は「はい」と返答するしかなかった。
「取り敢えず、休職してしっかり治したまえ」
 人事課長は眼鏡を指で上げながら、どこか厭らしい口調でそう言った。
「取り敢えずは療養に専念します」
「うむ、それでなんだが、こっちも臨任を雇う都合があるのでね、診断書は三ヶ月以上のもので出してもらいたいんだよ」
 功一が主治医に書いてもらった診断書の療養期間は一ヶ月であった。それを三ヶ月以上にしろと人事課長は功一を見据えながら言った。
「それに最近、職員が療養休暇や慶弔休暇を不正に取っているケースが多くてね。君も疑われないように気をつけたまえよ」
 人事課長は冷たい瞳で、そう言った。
(何てこと、言うんだ。この人は……! まるで俺が嘘をついているみたいな言い方しやがって!)
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸