カサゴ
少しすると潮が利きだしたのか、ポツポツではあるが鉄夫がカサゴを釣り始めた。功一の竿にもアタリがあった。ゴゴゴンという無骨なアタリは心地よくもある。功一はカサゴを遠慮なくゴボウ抜きにした。二十センチそこそこのカサゴだが、功一にとって本日初の獲物だ。功一はボウズ(一匹も釣れないこと)を免れたことと、こずえへの面目が立ったことで、内心ホッとしていた。こずえも功一が釣れたことを素直に喜んでくれたのが嬉しかった。
「潮も利き始めたし、観音崎沖に戻ってみましょう」
船長の提案で船は再び観音崎沖に移動する。
するとどうだろう、先ほどまで沈黙していたカサゴたちが嘘のように飛び出し、餌を咥えるではないか。鉄夫にも、功一にも、そしてこずえにもアタリがくる。常に誰かしらの竿が弧を描いている状態が続いた。
「カサゴのアタリって、見た目そのままね」
こずえが笑いながら言った。カサゴは鋭い棘を持ち、面構えは厳つい魚である。漢字では「笠子」と書き、釣り上げられ鰓を張ったカサゴの姿が笠を被った姿に似ていることから由来する。その引きは面構えと同様、無骨なもので知られている。
「確かにゴツゴツした引きだよね」
功一がサバの切り身を針に付けながら同調した。ちょうどこずえは釣り上げたカサゴを針から外そうとしていた。功一からプライヤーを使った針の外し方を教わり、お姫様釣りは卒業したようだ。
「カサゴって厳ついけど、よくみると愛嬌がある顔してるわね」
「美人のこずえに言われちゃ、カサゴも敵わないよな」
それからというもの、船長はこまめに船を流し変え、その度に必ずカサゴが釣れた。
「釣りってやつは、つくづく人生に似ているなぁ」
鉄夫がポツリと呟いた。
「えっ?」
それを小耳に挟んだ功一が、鉄夫の顔を覗き込む。
「さっきみたいに全然釣れない時もあれば、バタバタと釣れる時もある。人生も同じよ。何をやってもダメな時もあれば、急にトントン拍子にうまくいくこともある」
「なるほどね」
功一が頷く。
「奥が深い」
親子の会話にこずえも絡んできた。
「まったくダメな時があるからこそ、人は頑張れるのさ。でなきゃ努力しないもんな。釣れなきゃ何で釣れないんだろうと必死に考えるだろう。でも焦っても良い結果は生まれない。それも人生と同じよ」
そう語る鉄夫の横顔は夕日に染まりかけていた。
「今日はあまり釣れないんで時間を延長しましたが、後十五分で揚がっていきます」
船長が操舵室から声を掛けた。
「どうですか、おかずくらいは釣れましたか?」
船長が操舵室から顔を出した。鉄男も功一もこずえもにっこりと笑い返す。
「そうだ、こずえさんも今日、夕飯を一緒に食べませんか?」
「え、いいんですか?」
「カサゴの刺身と煮付けで一杯やりましょう」
鉄夫は円満の笑みを湛えている。
「それじゃあ、俺がこずえを車で送れないじゃないか」
どうやら功一は酒を飲むことに抵抗を示しているようだ。
「電車で送ればいいじゃないか」
功一とこずえが顔を見合わせた。二人でクスッと笑う。
「さて、もうちょっとオカズを釣るぞ」
今度は功一が緊張する番だった。こずえの実家に挨拶をしに行く日だったからだ。
こずえは「父とは仲が悪いの」などと言っていた。功一が想像するに厳格な父なのだろうと思った。
本厚木駅で待ち合わせをした功一とこずえは、こずえの実家へと向かった。こずえの実家は厚木市の恩名というところにある。バスでも行けるが、歩いてもさほどの距離ではない。功一はこずえの父が酒飲みだと聞いて、一升瓶をぶらさげていた。功一のアパートの近くに「望月酒店」という酒屋があった。そこは全国の珍しい地酒を取り扱っており、そこで「立山」の大吟醸を選んだ功一であった。
こずえの家の前で功一は深呼吸をした。それはため息にも似ていた。
「そんなに緊張しないでよ。私だってこの前のカサゴ釣り、緊張したけどね」
こずえがおどけた仕草をして、功一を和ませようとする。
「こずえの親父さんには二、三発は殴られる覚悟をしているよ」
功一はそう言って笑った。
「ただいまー、功一を連れてきたよ」
明るい声でこずえが玄関を開けた。すると、そこにはこずえの父が腕組みをして待ち構えていた。
「君が神崎君だね」
こずえの父はジロリと功一を見下ろした。功一は「初めまして、神崎功一です」と小さくなりながら、挨拶をした。
「私がこずえの父、喜久雄だ。話は家内の昌子から聞いているよ。まあ、こんなところで話もなんだから、上がりなさい」
こずえはまるで他人の家のように上がった。続いて功一が恐縮しながら上がる。こずえが功一の靴も揃えてくれた。
喜久雄はジッと功一を見据えていた。功一も喜久雄の瞳を見つめ返す。それは二人の男が対峙しているかのようにも見えた。昌子がお茶を淹れてきた。
「神崎君、無論、君は娘の過去を知っているな? それでも真剣に付き合いたいと管上げているのか?」
「もちろんです。今、僕の隣にいるのはAV女優のこずえさんじゃない。僕はこずえさんの芸名すら知らないんですし、知りたくもない。僕が愛しているのは『野原こずえ』さんなんです」
「ところで、君もうつ病を患っているそうだな。そんな病気持ちで、果たして娘を守れるのか?」
それは功一にも痛い質問だった。だが、喜久雄を納得させる答えを提示しなければならない。これは喜久雄にとっては娘を、功一にとっては恋人を賭けた男の戦いなのだ。
「この病気は長いトンネルのようなものだと思っています。トンネルはいつか抜ける。その時をこずえさんと支えあっていけたらと思います。逆に同じ病気だからこそ、こずえさんの気持ちもわかるんです。これから二人三脚でやっていきたいと思います」
喜久雄の瞳がフッと緩んだ。
「君は公務員だそうだな。やっと娘もまともに家に連れてこられるような男を見つけたか。アダルトビデオに出演していたような娘でも私には大切な娘なんだ。君のような男と付き合ってくれるなら、私も安心だ。何しろ公務員は病気で休んでも身分が保証されているからな。娘をよろしくお願いしたい」
「はい、必ず幸せにします」
そう頷いた功一の瞳には力が篭っていた。
「それはそうと、美味しそうな酒を持ってきてくれたじゃないか。私はお茶よりそっちがいいな」
喜久雄が笑った。釣られて功一とこずえも笑う。昌子がお新香を持ってきた。それと酒を注ぐグラスと。
「ところでこずえ、『あの男』とはもう縁が切れているんだろうな」
こずえが「うん」と頷く。功一は喜久雄の言う「あの男」の存在が気になったが、それは問うまいと心に固く誓った。
(こずえの過去なんてどうでもいいじゃないか……。今、俺たちが幸せならば……)
功一は心の中でその言葉を噛み締めていた。
功一とこずえはその日、厚木のぼうさいの丘公園に来ていた。ぼうさいの丘公園は厚木の郊外にある公園で休日などは子供連れなどで賑わう。功一とこずえは子どもたちが浸かって遊ぶ流水に足を浸けながら、涼を取っていた。ここはこずえの実家からも程近い。