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カサゴ

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 功一が恭しくグラスを差し出した。金色の泡が注がれる。功一は先ほどラーメンを食べていたから、空腹ではなかった。それでも久々に眺める黄金の液体は美味そうに感じた。グラスがカチンと鳴る。二人の男の喉が鳴った。
「ふーっ、やっぱり久々のビールは美味いね」
 功一が口に付いた泡を吹きながら言った。
「父さんなんか、ここのところ雨続きだから仕事がなくてな。昼間から、この美味い麦茶を飲ませてもらってる」
「父さん、もうそろそろ働かなくてもいいんじゃない?」
「年金だけじゃ食えないんだよ。身体が動くうちは働かにゃ」
「父さん、一つ聞いてもいいかい?」
「ん、何だ?」
「どうして俺があの病院、行くの反対しなかったんだい?」
 すると鉄夫は「ふーっ」とため息をついてグラスを置いた。
「本当は行ってもらいたくなかったさ、あんなところに……。でも仕方ない、仕方ないじゃないか」
 そこへ律子がお新香と冷奴を持ってきた。鉄夫が功一のグラスにビールを注ぎ、自分のグラスにも手酌で注ぐ。
「お父さんね、血圧の薬を貰いに行った時、病院の待合の雑誌で、たまたまうつ病の記事を読んだんですって」
 律子が心配そうにエプロンの端を握った。
「ああ、コンピューター関係や公務員でもうつ病が増えているってな。放っておくと、どんどん悪化して、治りも悪いそうじゃないか。だったら精神病院でもどこへでも行って、きっちり治した方がお前のためだと思ってな。でもまさか、入院するとまでは思っていなかったぞ」
「そうか。ご心配をお掛けしました」
 功一は改まり、両親に向かって深々と頭を下げた。
「馬鹿、子どもを心配するのが親の仕事じゃないか。そりゃ、子どもが幾つになっても同じことよ」
 この時、功一はふとこずえの両親のことを思った。正直、今までこずえを厄介払いするために入院させたのだと思っていた。しかし、アダルトビデオに出演し、うつ病になりリストカットまでしたわが娘を守るために入院させたのだとしたら、それは至極当然の考えではないかと。

 功一が実家に身を寄せてから一週間が過ぎようとしていた。この間、これと言ってすることもなく、功一はただぼんやりと過ごしていたのである。日中、テレビを観たり、晴れていれば、散歩をし、近くの秦野運動公園や戸川公園でのんびりしたりするのが日課だった。それに秦野も郊外になれば時間の流れは緩やかで、開放的なところが心地よかった。しかしながら、それだけの日課では二十八歳の男が身を持て余すのは当然と言ってよかろう。次第に功一の口からはため息が漏れるようになってきた。
 金曜日の夕方、鉄夫が仕事から帰ってきて、功一に言った。
「どうだ、明後日、久々に釣りにでも行かないか?」
「釣り?」
「折角なら、船に乗って行こうじゃないか。金沢八景からカサゴの船が出るんだ」
「カサゴかぁ。骨っぽいけど刺身にしても、煮付けにしても美味いね」
「よし、決まり、決まり。早速、船宿に電話を入れとくわ」
 そう言うと鉄夫は作業着の上着から携帯電話を取り出すと、そそくさと弄り始めた。
 功一は物置へ行くと、仕舞い込んだ自分の釣竿とリールを引っ張り出してきた。それらは積年の埃に埋もれており、リールなどはオイルとグリスを注さなければ使い物になりそうにない。それでも功一は嬉しかった。鉄夫が釣りに誘ってくれたこと、そして、今こうして釣具を弄る時間が出来たことが。
 功一は夕食もそっちのけでリールのメンテナンスに没頭していた。鉄夫は「父さんの道具を貸してやる」と言ってくれたが、やはり自分の道具で釣りたいものだ。リールは単に埃を被っていただけでなく、部分部分によっては錆付きもあり、入念なオイルとグリスの注入が必要だった。
 そんな時、功一の携帯電話が鳴った。携帯電話のディスプレー表示を見て功一は驚く。それはこずえからの電話だった。
「もしもし、こずえ?」
「もしもし、退院しちゃった」
「え、こんなに早く?」
 功一が目を丸くする。こずえが入院してまだ一ヶ月経っていないだろう。
「ちょっと、患者同士でトラブルがあってね、強制退院させられて今帰ってきたところ。まあ、良かったかも、功一のいない病院なんてつまんないし」
「今、どこにいるの?」
「厚木の実家よ。ねえ、これから会わない?」
「これからかい?」
 功一は時計を見る。時計の針は十九時を指そうとしていた。
 功一は律子に「ちょっと出掛けてくる」と言い、上着を羽織った。「ちょっと、功一」という律子の言葉は、彼の耳に届いたかどうかはわからない。漆黒の闇に溶け込む小豆色の軽自動車は、すぐさま滑り出した。
 
 その日の二十時半、小豆色の軽自動車は小田原市内にある、ハートランドクラブハウスというレストランの駐車場に停まっていた。このレストランはウッドデッキがあり、眼下に小田原厚木道路を行き交う車のテールランプを眺め、遥か向こうにはライトアップされた小田原城を望むことができる。
「ごめんね、こんな時間に突然呼び出して」
「ううん、でもビックリしたよ」
「どうしても今夜、功一に会いたかったの」
 そんな会話がレストランのテラスで交わされていた。金曜日の夜だというのに、ウッドデッキのテラスにいる客は功一とこずえだけだ。こずえは退院してすぐに化粧を施したのだろう。その美しさが際立っている。服装もまたミニスカートに戻っていた。
「相当、病院で嫌なことがあったな?」
「うん、まあね。私にはあの病院、合わないみたい」
 それ以上のことを功一は敢えて聞かなかった。おそらくは女性患者同士の確執がこじれ、トラブルになったのだろうが、こずえが喋らない以上、聞く必要のない話だ。事実、こずえは強制退院させられているのだから、良い気持ちはしないであろうと功一は思う。
「功一にね、どうしても言いたかったことがあるの」
「何だい?」
「正式にね、私と付き合って欲しいの……」
「もちろん。俺もそのつもりさ」
「元AV女優でもいい?」
「そんなの関係ないよ。好きになった人がタイプだから」
「こんな気持ちになったの初めて。今まで何となく付き合って、別れての繰り返しだったから、新鮮かも」
「俺にとってはこういうのが当たり前なんだよ」
 功一が笑った。しかし、その口調は少しも嫌味ではない。こずえが立ち上がり、眼下の小田原厚木道路を眺めた。功一が寄り添う。
「一つだけ注文してもいいかな?」
 功一がいささか真剣な表情で言った。
「なあに?」
「そのうち、こずえのご両親に会わせてくれないか?」
「嬉しい。うちの両親に会ってくれるの?」
 こずえが功一に抱きついてきた。化粧の香りが功一の鼻をくすぐる。
「今まで付き合った人って、親に合わせられない人ばっかりだったから……」
「俺のことはご両親によく言っておいてくれよ」
「はいはい」
 こずえがおどけて敬礼の仕草をする。そして、すぐに腕を功一に絡ませてきた。遠くに浮ぶ小田原城を二人でぼんやりと眺めた。
「ねえ、このまま二人でどこか行こうか?」
 こずえが甘えた声色でせがむ。
「ダメ。今日は帰らなきゃ。退院したその日に親を心配させちゃいけないよ。俺の印象も悪くなるだろう?」
「それもそうね。じゃあ、明日の昼間は会える?」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸