カサゴ
功一が笑いながら言った。しかし、その目はこずえのリストバンドへと向いている。
「うつはうつ。でも、そんなに重症じゃないのかもね。実は親にアダルトビデオへの出演がバレて、無理矢理入院させられたのよ」
「そうか……。でも、そんなことで入院させられるもんなのかなぁ……」
功一は親の都合などで、娘を勝手に入院させられるものかと思う。だが、現実にこずえは入院しているのだ。
「あー、なんか、あんたと話してるとホッとするわ。すごい楽」
こずえの目尻が下がった。いや、目尻だけではない、肩も幾分下がったか。
「いや、俺もここへ来て人と話したのなんか久しぶりだよ。ところでどこに住んでいるの?」
「厚木よ。今は実家にいるの」
「へえー、奇遇だな。俺も厚木で一人暮らししているんだ。まあ、実家は秦野だけどね」
会話が自然だった。既に二人とも二本目の煙草に火を点けようとしていた。
そんな功一とこずえの出会いから二週間ほどが過ぎた。二人は喫煙仲間としてよく会話をするようになり、いつしか「功一」、「こずえ」と呼び合うまでに距離は縮まっていた。功一は喫煙室以外にもよく出ては喋るようになったし、こずえもよく食堂に出てきていた。ただ、こずえのミニスカートは相変わらずで、病院に相応しい格好とは功一には思えなかった。男性患者を取り巻いての猥褻談義も時々聞かれた。だからと言って、こずえの趣味に口を挟む権利がないことは、重々承知している功一であった。ただ、不思議なことにこずえは、功一に対しては猥褻な話を振ることがなかった。
その日もこずえはミニスカートに臍だしルックと、刺激的な格好をしていた。本人にしてみればお洒落のつもりなのだろうが、男性患者たちの絡みつくような視線は避けられない。また、その格好で猥褻談義を醸すものだから、刺激にならないわけがなかった。
こずえが男性患者数人と猥褻談義を終えて、食堂の席から立ち上がった時だった。
「うおおおおーっ!」
雄たけびを上げた初老の男性患者が、こずえに向かって突進してきたのだった。
「きゃーっ!」
「ヤらせろよーっ!」
精神のバランスを崩した初老の男は、漲る力でこずえを押し倒し、その衣服を引き裂こうとしていた。
「やめろーっ!」
看護師より早く初老の男に組み付いたのは功一であった。だが、年寄りと侮ることなかれ、人間こういうときには力が出るものである。功一が引き剥がそうとしても、初老の男はビクともしなかった。それでも功一は、男の腕をこずえから離そうと、渾身の力を込める。次の瞬間、初老の男の力が緩んだような気がした。すると、功一の腕は振り解かれ、思い切り、顔面に肘鉄を食らわされたのだ。
「ぐうっ!」
それでも功一は男の腕を掴みなおした。功一は一瞬考えた。今まで模範患者のように過ごしてきたが、ここでトラブルを起こすと退院が延びるかもしれないと。だが、目の前でこずえが乱暴されているのを、見て見ぬ振りはできなかった。
ようやく看護師が三人、騒ぎに気付き、やってきた。誰も屈強そうな男性看護師である。
「はいはい、離れて、離れて!」
看護師たちは初老の男を無理矢理引き剥がす。ある者は頭を抑え、ある者は腕を捻り、ある者は足を締め付けた。さすがに初老の男も男性看護師三人を相手には屈せざるを得なかった。初老の男は看護師長が持ってきた拘束衣を着せられ、まるで独房のような保護室の向こうへと消えていった。
功一は洗面所でうがいをした。すると、口の中は切れ、血が吐き出された。鉄の味が不快だ。功一は鏡に映る自分の顔を恨めしそうに睨む。その顔が情けなかった。功一にはそう思えた。
廊下からは看護師長の甲高いヒステリックな声が聞こえていた。看護師長は年配の女性なのだ。
「あんたもね、ミニスカート穿いてお臍なんか出してるんじゃないわよ。ここは病院なのよ!」
功一は恐る恐る廊下に出た。すると、看護師長の前で頭を項垂れているこずえがいた。服は半分引き裂かれ、ピンクのブラジャーが露わになっていた。その姿に功一は一瞬ドキリとしたが、それ以上にこずえが哀れで仕方なかった。だが、看護師長の怒りは収まらない。
「それにあんた、猥褻な話をよくしてるでしょう。困るのよね、変に刺激されちゃ。また、今度みたいなことになったって責任持てませんからね」
功一はその横をすり抜け、自分の病室へと戻った。その際に、チラッとこずえの方を見たが、こずえは項垂れたままだった。
功一の病室は個室である。あまり広い部屋ではなかったが、差額ベッド代は加入している入院保険で賄えた。
廊下の喧騒がひと段落した頃、功一の病室の扉をノックする者があった。
「はい、どうぞ」
しかし、返事がない。不審に思い、功一が扉を開けてみるとそこに立っていたのは、紺のワンピースに着替えたこずえだった。功一が扉を開けるなり、こずえは病室に入ってきた。本来、他人の病室に入ることは固く禁じられている。
「ごめんなさい、私……」
そう言いかけて、こずえが功一の胸に飛び込んできた。その肩は震えている。
功一はそっと、そっと両手をこずえの背中に回した。力は入れずに、優しく抱きしめてやる。
「怖かった……。でも、すぐに功一が来てくれたのが嬉しかった……」
こずえの肩はまだ震えている。おそらくは、まだ恐怖が抜けないのであろう。そして、功一に抱きしめられている安堵感も同時に去来しているはずだった。
「俺も肘鉄食らっちゃったよ」
「大丈夫?」
こずえが顔を上げた。二人が瞳を閉じた。そして、唇と唇が重なった。
それはまことしめやかな接吻だった。重なった唇が余計な動きをするわけではなく、ただ時間の流れが止まっていた。二人の唇と唇が離れたのは、どれくらい経ってからだろうか。
「へへ、功一の唇、奪っちゃったね……」
こずえが照れくさそうに呟いた。
「この感触、ずっと忘れないでいるよ」
功一が今度は力いっぱいこずえを抱きしめた。こずえはすべての体重を功一に預けていた。
功一はその日の主治医との面接で開放病棟への移籍を提案された。開放病棟は届出さえすれば自由に出入りのできる病棟で、世間と隔絶された閉鎖病棟とは環境が違う。
功一はこずえと別れるのが辛かった。
喉元まで「このまま、ここにいさせてください」という言葉が出掛かったが、意を決して呑み込んだ。やはり主治医からの提案を断れないということもあったが、退院に一歩近づくような気がしたのだ。
こずえに「四階(開放病棟)に移ることになったよ」と告げると、こずえは寂しそうな顔をした。その顔は不安の色を湛えている。功一とこずえは病室でお互いを抱きしめあった。
「私も開放病棟に移りたいな」
「先生に相談してみなよ。こずえくらいの患者だったら、案外とすんなり開放病棟に移してもらえるかもよ」
それは功一の助言どおりだった。少し遅れて面接に臨んだこずえの主治医はあっさりと開放病棟への移籍を許してくれた。