カサゴ
功一は入院してから「閉鎖病棟」と呼ばれる、自由に出入りが出来ない病棟に籍を置くことになった。主治医の説明ではゆっくり静養するために、外部の刺激を遮断するのだとか。それでも、まるで防弾ガラスのような扉の鍵が音を立てて閉まる時、功一は世間と隔絶された感覚を覚えたものだった。
入院から二ヶ月。寝ては起きての生活の繰り返しだった。特に外科のように手術痕が癒されるわけではない。内科のように内臓の検査数値が良くなるわけでもない。一週間に一回ある主治医との面接では当たり障りのない話。果たして本当にうつ病が良くなっているのかどうか、功一にも実感できないまま二ヶ月が過ぎていった。
主治医は薬物療法と静養がうつ病には大切と言っていたが、病棟は心底静養できる環境ではないと功一は思っていた。看護師の目の行き届かないところで、患者同士の小さなトラブルは頻発していたし、牢名主のような患者は常に悪態をつく。力関係のヒエラルヒーは社会の縮図のようにも思えるが、アウトローの集団にも思える。何とも気の置けない集団だった。だから功一は食事と喫煙以外は、なるべく病室で過ごすようにしていた。
ただ、毎日することがないというのは、発狂しそうなほど気の遠くなる時間だった。かと言って、プログラムに参加して人と接するのも煩わしかった。この時、功一は時間で満腹であった。そのことを主治医に告げても「そのくらいで丁度いいんですよ」と返されるのが、ここのところ不満に思ったりもしている功一であった。
功一が夕食の時間より早めに食堂に出てくることは珍しい。それも、こずえとの約束があるからだ。だが、功一が食堂に出てきた時には、既にこずえの周囲には野獣のような瞳をぎらつかせた男性患者たちが取り巻いていた。その中には牢名主のような患者もいる。
取り敢えず、功一は少し離れた席に着き、新聞を広げた。新聞は毎日、病棟に届くのだ。特に新聞を読みたかったわけではない。耳はこずえとそれを取り巻く男性患者たちに向けられている。
するとどうだろう。そこに咲いていたのは猥褻談義だった。こずえはアダルトビデオに出演していたことを吹聴しているではないか。それに男性患者たちが食い入るように聞き入り、質問をしている。聞けば赤面するような話をこずえは堂々とし、男性患者からは歓声が上がる。
功一は軽く咳払いをした。それに気付いたのか、こずえがチラッと功一の方を見た。だが、既に男性患者たちの勢いは留まることを知らず、次から次へとアダルトビデオの撮影現場のことなどで質問攻めにする。
功一は新聞の陰からこずえの表情を見た。それは何とも活き活きとしているではないか。
「昔取った杵柄、か……」
功一が唸るようにつぶやいた。そのこずえの気持ちがわからなくもない功一であった。現在の部署に人事異動になる前には、第一線で仕事をこなし、上司からの信頼も厚かった。それなりに仕事をこなしていたプライドもあった。そんなプライドと同じように、今のこずえにはアダルトビデオに出演していたことが誇りなのかもしれないと功一は思う。このような環境に置かれて尚、アイデンティティーを保つにはその話をするよりほかにないのだろう。
だが、功一の心の中は釈然としない。この時間の先約は彼にあるのだ。功一は恨めしそうな目で男性患者たちを見つめた。
すると、それに気付いたこずえが立ち上がった。
「はい、もうアダルトビデオの話はお仕舞い」
そして、功一の方へと歩み寄る。
「ごめんね、お待たせ。一緒に煙草吸う?」
「ああ……」
功一とこずえは連れ立って喫煙室へと向かった。その後を二人の男性患者が付いて来て、一緒に喫煙室に入った。だが、功一とこずえは気にせず話し始めた。功一はこずえの煙草にライターで火を点けてやった。
「ごめんね。気にしてる?」
「いや、別に……。でもあまり刺激的な話は避けた方がいいんじゃないかな。そうは言っても、ここは精神病院なんだぜ。心のバランスを崩す奴がいないとも限らない」
功一は責めるふうでもなく、さらっと言って退けた。こずえは口を「へ」の字に曲げて困惑したような表情をし、頭を掻いた。
「私が私らしくいられる時って、ああいう話をしている時なのよね」
「わかるよ、その気持ち……」
「ああ、ダメね。決別したつもりなのに。アダルトビデオのせいで病気になったんじゃない」
こずえが頭を抱えた。左手のリストバンドが痛々しい。
「親御さんにアダルトビデオのことは?」
「当然バレたわよ。そうしたら、お前は狂ってるって言われてね。まあ、うつ病になっていたんだけどね」
「やっぱり辛いの、あの仕事?」
功一が心配そうな顔をしてこずえの顔を覗き込む。
「うーん、仕事自体は楽しいかな。そりゃ、楽しくなきゃ、やってられないわよ。でもやっぱ虚しいのよね」
こずえがため息まじりに煙を吐き出した。一緒に入ってきた二人の男性患者は煙草を吸うわけでもなく、ただ突っ立っている。その二人のこずえを舐め回すような視線と言ったらどうだ。煙がその二人の方へ流れた。
「そうか、虚しいか……」
「でも、あなたはいいわよね。市民のために働いているんだもの。やり甲斐もあるでしょう?」
「そんな格好いいもんじゃないぜ。結構、一般常識とズレていることがまかり通るのがお役人の世界なんだなぁ……。非人道的な考えをする人もいるよ。情が通る世界じゃないね。数字ですべて片付けられちゃう感じ」
この時、功一は笑っていた。功一は自分でも不思議に思う。入院して以来、笑ったことなど果たしてあるのだろうかと。しかも、仕事の話をしながら笑う自分に驚いていた。
(もしかしたら、俺のうつ病は良くなっているのかもしれない……)
そんなことをこずえとの会話で実感していた。もし、それが本当だとしたら、その引き出しを提供してくれたこずえに、感謝しなければならないと功一は思った。
「もっと、エッチな話をしてくれよ!」
一緒に喫煙室に入ってきた男性患者の一人が痺れを切らせ、こずえに叫んだ。だが、こずえはその男性患者を一瞥し、言い放った。
「私はこの人と今、話をしているの。もう、エッチな話はお仕舞いよ!」
それでも二人の男性患者は喫煙室から立ち去ろうとしなかった。功一は知っていた。この二人は煙草を持っていないことを。喫煙本数が制限され、夕方には煙草がなくなってしまうのだ。だから、煙草を他の患者にねだったりして、よくトラブルを起こしていた。喫煙室には喫煙しない者の入室は禁じられている。
功一はテーブルの灰皿に目を遣った。吸殻が山のようになっている。功一は喫煙室の扉を開けると、廊下にいた看護師を呼んだ。
「すみません、灰皿の吸殻を捨ててもらえますか?」
「はい」
ここは精神病院だ。看護師の多くは男性である。喫煙室に無意味に突っ立っている二人の男性患者がこの看護師に引きずり出されるのに時間はかからなかった。実際、この看護師の「煙草を吸わない人は外に出る」の一言で、二人は呆気なく退散してしまった。
「ふふふ、あんたもなかなかやるじゃない……」
こずえが悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「やっぱり、あんたはうつ病に見えないな」