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カサゴ

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「ああ、みなとみらい線を降りてすぐだよ。JRだと関内かな」
 ネクタイを緩めながら、功一が言う。ジャケットはこずえがハンガーに掛けてくれた。
 水槽の音がこだまする。正月休みに功一が実家から引き揚げてきた水槽だ。両親から引き取るように言われたのだ。無論、中にはカサゴがいる。海に返そうかとも思った功一だが、何となくカサゴの愛くるしい顔に魅了され、手放せないでいるのである。
「帰宅時間が早いだけで、もう普通に公務員してるね」
「うん。調子が良いんだ。やっぱり、こずえと同棲できたのが大きかったかな」
「嬉しい。私ももう馬鹿な真似しないね」
 背後から抱きついてきたこずえの左手首を功一は見た。そこには二本の蚯蚓腫れの傷跡がある。
「うん……。俺はこずえがいないとやっていける自信が無いよ」
「私も……」
 功一は背後から抱きつくこずえの手をそっと握った。
「今日の夕飯ね、私が作るから……」
 功一の口元がフッと緩んだ。
(俺にもこんな幸せがあったんだ……)
 そんなことを思う功一であった。
 こずえがエプロンを着けた。その姿が愛らしく感じた功一は、またこずえを抱き寄せた。
「あっ……」
 こずえが小さく喘いだ。功一はおもむろにこずえの唇を奪った。今のこの幸せを唇の感触で確かめたかった。水槽のカサゴが岩陰から二人の接吻を見つめていた。

 一週間後、資料の提出も生活保護法施行事務監査も無事に終わり、功一は胸を撫で下ろしていた。特に監査資料は出来栄えが良いと県庁の職員に好評だった。それは功一の自信につながった。
 そして迎えた竿鱗会当日である。こずえと功一は本厚木駅南口で渡辺の車を待っていた。朝の五時半に渡辺はロータリーに車を滑り込ませた。すぐに功一が駆け寄る。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「彼女が野原こずえです」
 功一が渡辺にこずえを紹介した。こずえは「お世話になります」と頭を下げた。
「ああ、こちらこそよろしく。しかし、こりゃ、えらい美人を連れてきたな。え、神崎?」
 功一は照れたように頭を掻いた。こずえははにかむように笑っている。
「さあ、こんなところで話もなんだから、乗った、乗った」
 こうして渡辺の車に同乗したこずえと功一は金沢八景を目指すことになった。
「二人はもう一緒に暮らしているんだろう?」
 渡辺が上機嫌で聞いてきた。
「はい。彼女の父も退院しましたし、暮らしぶりは安定しています」
「そりゃいい。だったら先に籍だけを入れるという手もあるぞ」
「なるほど」
 こずえと功一が顔を見合わせて頷いた。喜久雄もこずえの結婚を楽しみにしている。ならば、先に籍だけを入れるという手段もあるものだと功一は考えた。
「籍、入れちゃおうか?」
 こずえが功一の耳元で囁いた。
「そうだなぁ。同棲生活も板についてきたし、いっそ、入れちゃうか」
 功一が笑った。運転席では渡辺が「いいねぇ、若いって」と囃し立てた。
 そんな会話をしていると、小一時間ほどで金沢八景に着いた。
 新健丸の宿にはもう既に竿鱗会のメンバーが集まり、釣り談義に花を咲かせていた。
「おう、おはよう!」
 渡辺が宿の扉を潜った。功一とその後ろにこずえも続く。
「おっ、幹事のお出ましだぞ。若え衆も来た。おお、こりゃべっぴんさんじゃないか」
 こずえの登場に周囲から「おおーっ」という歓声が湧く。だが、気の置けない集団はすぐ釣り談義へと戻る。
「今日の竿頭は誰かな」
「大淵さんは大物はともかく、小物釣りにかけては天才的だもんな」
「いやいや、松本さんもなかなかやりますよ。以前、シロギスではダントツだったから」
 猛者連たちは誰が一番多く魚を釣るか、その話題で持ちきりだった。だが、どこかフレンドリーな雰囲気の漂うムードだった。
 そこへ船長がやってきて挨拶をした。
「皆さん、おはようございます。カサゴはまだちょっと水温が低いんで渋いかもしれませんが、皆さんには釣ってもらえるよう頑張りますので、よろしくお願いします。もう船は桟橋に着いていますので、準備の方、どうぞ」
 船長のその言葉に、皆、飲みかけのお茶をそのままにして、船の着けてある桟橋へと移動する。こずえは壮年の団体のパワーに圧倒され気味だったが、しっかり功一にくっついていた。
 船では早速、船長が餌の準備にかかっている。この新健丸は餌にもこだわっており、今日はサバの切り身とアオイソメが用意されていた。アオイソメは太くて活きが良く、普段功一が釣具店で買い求めているものとは随分と差があった。本来、この宿ではカサゴ釣りの時、サバの切り身の他につく餌は活ドジョウか豆アジなのだが、何せイシモチ釣りのシーズンだ。活きの良いアオイソメが用意されていても不思議ではなかろう。
「お嬢さんは虫餌は苦手かな?」
 渡辺がにこやかにこずえに話しかける。
「いいえ、功一のアパートに水槽があって、そこでカサゴを飼っているんですけど、いつも餌はアオイソメなんです。私も慣れちゃいました」
「ははは、頼もしいお嬢さんだ」
 そんな会話をしていると、船がアイドリングを始めた。それは出航の時間が近いことを知らせてくれる。防寒具を身に纏った猛者連たちはやる気満々だ。
「功一、カサゴ、釣れるかな?」
 こずえが緊張した面持ちで、功一の袖を引っ張った。
「まあ、ボウズ(一匹も釣れないこと)はないだろう……」
 功一は仮にボウズだとしても、こずえと一緒に釣りが出来る楽しみの方が大きかった。それは、こずえとて同じ思いだろう。
「それでは出船しまーす」
 船は若女将に見送られながら出航した。
 桟橋を離れた船は野島橋を潜り、八景島シーパラダイスの前で停泊した。スパンカーと呼ばれる帆を張るためだ。
 スパンカーを張った船は一路、ポイント目指してフルスロットルで走った。

 船が疾走を続ける間、皆はキャビンの中で過ごしていた。何せ一月の冷気の海上を疾走するのだ。釣り好きでもキャビンに潜り込みたくなる。電車組は早くもカップ酒を煽っている。そんな連中に渡辺は「もう船酔いの準備か?」などとジョークを飛ばしていた。
「この前の観音崎とは逆方面ね」
 こずえはキャビンの窓から見える工業地帯を眺めながら呟いた。
「今日は本牧方面だと言っていましたよ。あそこは根がきついから根掛かりとの勝負になるなぁ」
 カップ酒の男はもう二本目を開けている。顔は真っ赤だ。普通の乗合ならば、敬遠される行為だが、何せ今日は仲間内だけの仕立船だ。少しくらい羽目を外しても許されよう。
 そうこうしているうちに、船は本牧沖に到着した。沖堤の脇で小まめに旋回する。船がスローダウンしたところで、皆、一斉にキャビンから外へ出てきた。功一やこずえも外に出る。今日のこずえと功一の席は胴の間と呼ばれる船の中央付近だ。
 やがて、船は堤防の脇で停泊した。
「はい、どうぞ。ここは根がきついから根掛かりに気をつけてください。落としたら五秒くらい待って、それから小まめに底ダチを取ってくださいね。でないと、根掛かりしますよ」
 船長のアナウンスと同時に皆、一斉に仕掛けを海中に放った。
 仕掛けを落としてすぐ、こずえの竿先がビクンビクンと跳ねた。
「きたみたいーっ!」
作品名:カサゴ 作家名:栗原 峰幸