カサゴ
「俺も身内だけでやりたいな。あの教会で結婚式を挙げて身内だけで食事会なんていうのはどう?」
「私はそれでいいわよ」
こずえは「ふふっ」と笑った。そして、「アダルトビデオの関係者なんて呼べないじゃない」と呟いた。
「早くこずえのお父さんが退院できるようになるといいな」
「リハビリで猛特訓しているんだけど、やっぱり介護は必要になるらしいの。ねえ、功一は福祉関係の仕事をしているんでしょ。何かいい知恵があったら貸して欲しいの」
「うーむ……」
功一が腕組みをして考え込んだ。
「こずえのお父さんはいくつ?」
「もうすぐ六十歳。還暦間近よ」
「二号保険者で介護保険の申請をしたらどうかな」
「二号保険者?」
「介護保険の適用は六十五歳からなんだよ。会社で社会保険に入っていれば、六十歳でも二号保険者として介護保険を受けられるんだ」
「やっぱり、功一に相談してよかった。お父さんね、会社を正式に辞めることになるらしいのよ」
「大丈夫。国民健康保険でも二号保険者の扱いは出来るから。それだったら、早めに要介護認定の手続きをしておいた方がいいよ。今度、お母さんにも助言するから」
功一は自分の仕事がこんなところで役に立つとは思ってもみなかった。
「介護保険ってどんなものなの?」
「ヘルパーさんに来てもらったり、入浴サービス受けられたり、施設に通所したりもできるよ。まあ、入所は考えていないだろうけど」
「うん。在宅復帰を考えているみたいよ。出来ればお父さんにはバージンロードを一緒に歩いてもらいたいな。杖をついてでもいいからさ」
こずえが頬杖をつきながら、うっとりとした表情をした。功一はこずえにワインを注いでやった。
「ふふふ、婚約指輪も嬉しいけど、功一の知恵が一番嬉しいプレゼントかな」
「あははは……」
こずえと功一は運ばれてきた鬼アサリのパスタに舌鼓を打った。この後はメインディッシュの肉料理が運ばれてくる。パンもオーダーした功一であった。
仕事納めの日、功一は午後から出勤した。渡辺が仕事納め式の後、竿鱗会のメンバーを紹介するというのだ。功一も釣りに行く前に顔が知れていれば、それだけ緊張せずに済むと思い、渡辺の提案に従うことにした。
竿鱗会のメンバーはどちらかというと、窓際族の集まりのようであった。それでも皆、瞳に異様な輝きを湛えている。
「この前の相模湾のイナダは良かったな。入れ食いだったな」
「ああ、あの時は家内に嫌な顔をされた。誰が食べるのかって」
「その前の走水のビシアジは好評だったぞ。ちょっと棚取りがシビアだったけどな」
「のんびりシロギスなんかもいいねぇ……」
もう勤務時間も明け、会のメンバーは市役所の会議室で酒を酌み交わしていた。
「えー、次回は金沢八景からカサゴとイシモチのリレーを予定していますが、新規参加のメンバーを紹介します。うちの生活福祉課の神崎功一です」
渡辺が功一を皆の前で紹介した。功一は釣りの猛者連に頭を下げた。
「まだ初心者ですが、よろしくお願い致します」
「おお、若手が入ったぞ」
会のロートルメンバーは赤い顔をしながらヤンヤヤンヤと囃し立てた。
「ところで、渡辺さんよー。会の意見ではイシモチとのリレーじゃなくて、カサゴ一本に絞りたいという意見が大多数なんだけどな」
「えっ、イシモチはいいの?」
渡辺が素っ頓狂な声を上げた。
「カサゴは鍋にしても美味いじゃないか。イシモチはマイナーだよ」
「そうかぁ……。イシモチも刺身にして美味いんだけどな」
「カサゴ、カサゴ、カサゴ!」
まるでシュプレヒコールのような声が上がった。渡辺は「参ったなぁ」という顔をして頭を掻いた。
そんな折、急に功一の携帯電話が鳴った。発信元はこずえだった。
「ごめんね。まだ仕事中?」
「いや、もう仕事は終わって、来月の釣りの相談をしているところだよ」
功一が苦笑した。
「お父さんが明日、退院することになったの。大分身体の方も良いみたいで、杖をつけば歩けるみたいなの」
「そうか。それはおめでとう。いやー、良かった、良かった。お正月を家で迎えることができるじゃないか」
「うん。取り敢えずは介護保険の申請も必要なさそう」
「そっか……」
「でもお母さん、功一のこと頼りにしているみたいよ」
「そりゃ、光栄だな。ところで、来月の釣り、カサゴ一本に絞られそうだ」
「ふふふ、カサゴには縁があるわね」
「今日は飲みに行こうよ」
「うん」
こずえの声は明るかった。それで、功一も安心したような表情をした。
「おお、若いの、一杯やれよ」
顔を赤くした会のメンバーが功一にビールを勧めた。功一は「ちょっと用事があるので」と固辞した。早くこずえの元に帰りたい功一であった。
暮れと正月はこずえも功一も、それぞれお互いの実家で過ごすことになった。お互い独身で迎える最後の正月くらいは家族で過ごそうということになったのだ。
喜久雄は順調に回復し、在宅生活を営めるほどにまでなった。左半身の麻痺も杖をつけば日常生活にさほど影響はなかった。
功一は実家でくつろいでいた。こずえとは携帯電話で毎日やりとりをし、新年の二日にはこずえが功一の実家に挨拶に来て、三日には功一がこずえの実家に出向いた。喜久雄は功一のことも思い出し、もうすっかり我が子のように功一を可愛がってくれたものである。
四日は市役所の仕事始めであった。一月から功一は六時間勤務となっていた。仕事の内容は少しずつではあるが変わっていた。生活保護法施行事務監査が近いということもあり、その資料作りの手伝いが主な業務だった。それはかつて入院する前の煩雑な事務を思わせたが、渡辺のフォローもあり、功一は落ち着いて事務に専念することができた。
「どうだ、忙しさが戻った感じだろう?」
渡辺が資料を捲りながら、功一の机に寄ってきた。功一は振り向いて、「はい」と笑顔で答えた。功一は嬉しかった。監査資料でも少しは自分が生活福祉課の役に立っていると思えたからである。
「監査が終わったら竿鱗会の釣行だぞ。それまで頑張ってくれ。あ、うつ病に『頑張れ』は禁句か」
渡辺が笑った。功一も苦笑する。
「ところで、結婚式の日取りは決まったのか?」
「それなんですが、復職してから身内だけでやろうかと思いまして……」
「そうか。今の若い者にはそれが普通なのかもしれないな。ところで、その資料なんだが、明日、県庁の方へ提出する。明日は神埼も同行してくれ。何せ資料を作ったのは神崎、お前だからな」
「係長……。リハビリ勤務で出張していいんですか?」
「本来はダメなんだろうが、気にすることはない。ただし、出張旅費は付かんぞ。まあ、気分転換だと思ってくれ。一緒に中華街で飯でも食おう」
「はい」
功一は笑顔で頷いた。渡辺は気が利くフォローを随所随所で入れてくれた。ここまで功一が復調できたのも渡辺のお陰と言わねばなるまい。功一は監査資料作りの仕上げに入っていた。
「お帰りなさい」
アパートに帰った功一をこずえは笑顔で迎えてくれた。そして、鞄を受け取るその姿は功一の妻そのものだ。功一はここまでたどり着けた幸せを噛み締めていた。
「ただいま。明日は県庁に出張になったよ」
「県庁って横浜だっけ?」